Dr.FeelGoodの小部屋

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「大日本軍艦明石」祖父・木工軍歴: その4 明治45年から大正元年(1912年)の履歴

(つづき)

 

年ごとに、母方祖父の軍歴をたどっている。

 

さて、この年、1912年は、明治45年と大正元年にまたがることになる。

 

明治45年7月29日に明治天皇崩御され、翌日7月30日から大正時代が始める。

 

余談ながら、

この年におこった世間のニュースを少々書いてみる。

 

1月17日、スコット隊、南極点到達。

1月18日、白瀬隊南極点到達断念、最終到達地点を大和雪原と命名し、日の丸を立て日本領地宣言。

4月14日、タイタニック号沈没。

5月18日、日本海巡洋艦「金剛」進水。これが日本海軍最後の外国製の戦艦となる。

7月3日、通天閣完成。

9月13日、乃木希典、夫人とともに殉死

(メモ:司馬遼太郎氏の「殉死」という作品がある。)

10月8日、第一次バルカン戦争勃発。(第一次世界大戦への火種がでてきている。)

 

 

さてさて、

履歴にもどる。

「明治45年4月30日 海軍四等木工ヲ命ス」

 

前年12月、兵役に就いてから5か月を経て、四等木工になっていることになる。

 

さらに

大正元年12月1日 海軍三等木工ヲ命ス」と記載されている。

 

四等木工になって7か月後、(兵役に服してから、計一年経過後)、三等木工となっている。

この時、21才。

 

そのあと、

大正元年12月28日 馬公発 南清回航(警備) 但軍艦明石乗組」の記載。

 

兵役に就いて約1年間、どこで訓練されていたのかは軍歴書類上確認はできない。

 

記載から、三等木工になった後、軍艦明石に乗り組み、はじめて外洋に出航していることがわかる。

 

Wikipediaの中では、防護巡洋艦、明石の母港は、「呉」と書かれてある。

 

瀬戸内出身者であるため、近くの呉で、はじめの訓練を受けていたのだろうか?

あくまで推測で、詳細は不明である。

 

Wikipedia:明石(防護巡洋艦

建造所 横須賀鎮守府造船部[1]
(横須賀海軍造船廠[2])[注釈 1]
運用者 大日本帝国海軍
艦種 防護巡洋艦
建造費 1,191,449[3]
母港 [2]

 

 

・「馬公」は、「まこう、マーゴン」。

 

台湾の港とおもわれ、今回の取り寄せた祖父の軍歴の中でもっともよく出てくる港名。

日本海軍の拠点軍港の一つと思われる。

 

日清戦争後、下関条約締結により、台湾の割譲統治が始まっているため、台湾はこの時期、すでに日本の統治下におかれている。

 

 

・「南清回航(警備)」について。

 

この年、1912年1月1日、孫文が南京で中華民国の設立を宣言し、臨時大総統に就任している。

 

清国は、同年2月12日(明治45年)に、のちの満州国に大きくかかわることになる、清朝12代皇帝、愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)の退位をもって終焉している。

(いわゆる、映画ラストエンペラーの人物。)

 

少々このあたり、よく調べていないので不明だが、中国の政情不安の中、なんらかの警戒警備が目的であったと推測する。

 

 

・「但軍艦明石乗組」

 

「但」は限定を表す言葉のようであり、

職務は、軍艦明石乗組に限定されるということだろうか。

 

いずれにせよ、1912年(明治45年・大正元年)、清国終焉の年、軍艦明石に乗り組み、初の出航をしていることになる。

 

祖父は、瀬戸内海に浮かぶ島の田舎から、兵役訓練1年後、いきなり外洋へ連れ出され、おそらく人生最大級の不安におそわれたことだろう。

 

それとも、日露戦争で、この7年前にバルチック艦隊を打ち破った日本海軍というものに誇りをもって、若者にありがちな浮いた気分で、得意げに出航したのだろうか。

 

いずれにせよ、小心な僕には、想像を絶するできごとである。

 

・・・・・・

参照

Wikipedia

馬公

 

馬公市(マーゴン/まこう-し)は、台湾澎湖諸島にある市。澎湖県県轄市で、澎湖県政府の所在地である。台湾の歴史上最も早くから漢民族による開発が行われた地域である。

概要

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馬公市内には、1592年に創建された台湾最古のである天后宮がある。馬公の市街はこの天后宮を中心に形成され、その街路網は現在でも残っている。天后宮以外にも、澎湖島内には150近くの寺廟がある。ただし、島民の生活が古くから海と密着したものであったことから、そのほとんどが海のである媽祖を祀っており、島民の伝統的な生活を窺うことができる。

地理

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馬公市は澎湖諸島に位置している。

 

馬公港

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「大日本軍艦明石」祖父・木工軍歴: その3 明治44年(1911年)の履歴

(つづき)

 

厚労省から送られてきた祖父の軍歴を経時的に見ていきたい。

 

20才になり、約一か月半後にあたる、

 

明治44年12月1日、海軍五等木工ヲ命ス」

 

という記載がみられる。

 

西暦1911年である。

 

日露戦争は、明治三十七八年戦役ともいわれ、これが1904年2月6日から1905年9月

5日までであり、祖父は日露戦争には参加していないことがわかった。

 

その後、第一次世界大戦は、大正3年(1914年)9月28日にはじまるため、この大戦がはじまる2年半ほど前に、海軍に入っていることになる。

 

そろそろ、ヨーロッパでは第一次世界大戦への、きな臭さが世相にあらわれている時期ではないかと想像する。

 

この明治時代の徴兵は満20才である。

祖父はこの徴兵制により海軍に入ったものと思われる。

 

司馬遼太郎氏の名作「坂の上の雲」の中で、日露開戦時の水兵クラスは、瀬戸内出身者が多かったとの記述がある。

 

時期はやや異なるとはいえ、祖父は瀬戸内の島の出身である。

 

おそらく、潮のながれ、海の風、水泳技術など、海というものを肌で感じ取れるという感性を持ち合わせているという点で、即戦力として、水兵として適した者が多かったのではないかと想像する。

 

宮大工をしていたということを聞いており、「木工」という部署に配属されたものと推測される。

 

いずれにせよ、

ここから二十歳になったばかりの祖父の、おそらく本人自身も、想像を絶するような生活がはじまることになる。

 

To be continued

 

(徴兵制について、以下、ウィキぺディアから参照としておく。)

 

************

以下、徴兵制に関するreference
Wikipediaから:
 
明治維新により、江戸幕府が崩壊して身分制度が廃止されると、1873年明治6年)には国民の義務として国民皆兵を目指す徴兵令陸軍省により発布された。徴兵令は、それまで軍事に関する権益を独占していた武士士族)の特権を奪うものと認識され、士族反乱の原因の一つとなった。一方、徴兵令の対象となった平民からも不満が出て、一部では血税一揆などの騒動に発展した。

1889年明治22年)公布の大日本帝国憲法明治憲法)第20条にも「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ兵役ノ義務ヲ有ス」として兵役の義務が規定された。徴兵令はそれまでも何度か改正を繰り返していたが、明治憲法公布の際に法律として全面改正があった。その後1927年昭和2年)にも全面改正があり、その際に兵役法と改名されている。

徴兵制の概要
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日本の徴兵制度戸籍制度を前提にしており、明治6年1月10日法では「一家ノ主人タル者」や家産・家業維持の任に当たる者は兵役の義務から免除されていた[65]戸籍法の適用を受ける日本国民の男性は、満20歳(1943年からは19歳)の時に受ける徴兵検査によって身体能力別に甲-乙-丙-丁-戊の5種類に分けられた。甲が最も健康に優れ体格が標準である甲種合格とされ、ついで乙種合格、丙種合格の順である。丁は徴兵に不適格な身体である場合、戊は病気療養中に付き翌年に再検査という意味である。

当初は一番体格が標準的である甲種の国民が抽選で選ばれた場合に、「現役兵」として徴兵されるにとどまっていた。具体的にはおおよそ10人に1人から4人に1人程度であり、これらの兵士が戦時体制となる前の平時の訓練を受けた兵であった。戦争が始まると甲から順次徴兵されていった。しかし不公平感から全国で徴兵反対運動、あるいは徴兵逃れのための不正が横行するようになった。

そのため徴兵制度は大改正され1889年(明治22年)には法制度上、男性に対して国民皆兵が義務付けられ、甲種合格の者はほとんどが入隊した。やがて徴兵逃れ行為も下火となり、逆に乙種以下とされ徴兵されない事が不名誉とみなされるようになった。

日中戦争が激化した1941年(昭和16年)11月15日、兵役法施行令が改正され、身体が虚弱なため徴集されなかった者(いわゆる第二国民兵)を予備兵または補充兵と同様に招集することが可能となった。また中国大陸に在留する邦人に対しても徴兵、召集が可能となった[66]

太平洋戦争において戦局が激化するにつれ、現役兵としての期間を終えた後の予備役や後備役にあった元兵士の国民も召集令状によって召集され、大戦末期の昭和20年には徴集率は九割を超えた。通常、現役での徴兵を「徴集」、予備役・後備役での徴兵を「召集」と呼んで区別されていたが、混乱期には区別せずに「徴集」を用いることもあった。この召集制度が悪用された例として竹槍事件がある。さらに第二次世界大戦末期になると兵力不足が顕著になり、文科系学生への徴兵(学徒出陣)や熟練工・植民地人の徴兵が行われた。

徴兵された家庭に対しては、地域単位で様々な慰安会が行われたほか、労働力減少を補うために児童、生徒などによる勤労奉仕(農作業など)が行われた[67]。また、企業・職場単位の労働力減少に対しては国民勤労報国協力令による勤労報国隊が動員された。

日本の降伏後は、日本軍が解体されたため、徴兵制度の根拠となる兵役法は、1945年(昭和20年)11月17日に廃止された。

 

 

 

 

 

 

「大日本軍艦明石」祖父・木工軍歴:その2 軍歴を取り寄せる (旧海軍・厚労省)

前回のつづき。

 

祖父の軍装写真を、叔父からあずかり、その後、軍歴を調べてみることにした。

 

10年ほどのまえのことになり、若干記憶があやしい部分もあるが、たどってみる。

 

旧海軍の軍歴依頼は、厚労省に担当部がある。

 

たしか叔父の戸籍を役所で取ってもらって、親子関係を明らかにしたものをそえて、手紙をつけて、申し込んだようにおもわれる。

 

これについては、インターネット上でいろいろな方が書かれているので、より正確なことがわかることだろう。

 

おそらく、3か月から半年くらいたってから、軍歴がかかれた書類がたしか叔父の家に届き、叔父から私のもとへ送付されてきたように記憶する。

 

*****

 

以下、次のような感じで冒頭は書かれていた。

 

厚生労働省社会・援護局

業務課調査資料室

 

○○○○様(叔父の名前)

 

旧海軍の履歴について(回答)

 

ご依頼のありました○○○○様に関する旧海軍の履歴について、総務省から送付された資料(国立公文書館において保管)によると以下のとうりです。

 

 

氏名 ○○○○

生年月日 明治○○年○○月○○日

 

次に、その

「履歴事項」が記載されてゆくという形式である。

 

以下、またつづく。

 

To be continued

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「大日本軍艦明石」祖父・木工軍歴:その1 一枚の写真から

10年ほど前、帰省時、母が腰痛を起こしクリニックへ連れて行った。

 

繁盛したクリニックで待ち時間が長く、一旦自分は近所の親戚の家で待機した。

 

叔父さんが、こんな写真が出てきたと一枚の写真を差し出した。

(母方の祖父で、自分が生まれた時にはすでに亡くなっており、会ったことはない。)

 

おそらく明治海軍入隊当時の記念写真ともおもわれ?、どこかの軍港の写真館で取ったものだろうか。詳細はわからない。

 

童顔に、白いハンカチを左手に持ち洋風の椅子に手をかけ、右手は腰の後ろに持ってきて、ポーズをとっている。

 

写真はすでにセピア色に変色している。

明治24年(1891年)生まれのため、100年はこえている。

 

上下白、水兵のセーラー服のいでたちで、紺系のセーラーを胸前でとめているようにみえる。

 

左腕には、逆Vの字に一本の紺色の章。

 

その下には、両端がスパナ状、これを2本波型にしてX字状に組み合わせ、その上部には5弁の花紋がある。

 

白の水兵の帽子には、紺色のバナーがあり、昨今の書く方向とは違い、

「石明艦軍本日大」と大書してある。

 

「大日本軍艦明石」である。

明治に横須賀で建造された防護巡洋艦であり、のちの工作艦・明石とは異なる。

 

祖父の海軍時代のことについて、多くのことは伝わっていない。

 

「人間、本当につらかったことは人には語らないものである。」と私はおもう。

 

ただ大酒した際、「軍艦に砲弾があたり、一番最初に海に飛び込み、勲章をもらった」と言っていたことを母から聞いたことがある。酒席での、ほら話だったかもしれない。

 

が、確かに勲章らしきものは、神棚の中に存在していた。

 

ちょっと調べてみたいと叔父に申し出て、写真を受け取った。

 

帰宅時、新幹線で日本酒を飲みながら、ずーっとその一枚の写真をながめていた。

 

童顔の祖父が、どういう心もちでこの写真を撮ってもらっていたのか想像すると、

前胸部に軽い絞扼感が生じた記憶がある。

 

翻って、

戦争というものが、一市井のなにも知らない若者を、国家の正義という名のもとに、いとも簡単に組織に包括していく潮流に、世の中のおそろしさを感じざるをえなかった。

 

一方、その童顔をさらに見てみると、若干誇らしげに、すこし不安げに、表情筋が作動しているようにも感じとれた。

 

To be continued

 

 

 

以下、

Reference Wikipedia

 

明石 (防護巡洋艦)

 
 
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
明石
基本情報
建造所 横須賀鎮守府造船部[1]
(横須賀海軍造船廠[2])[注釈 1]
運用者  大日本帝国海軍
艦種 防護巡洋艦
建造費 1,191,449[3]
母港 [2]
艦歴
計画 1893年度予算
発注 1893年5月9日指令[4]
起工 1894年8月6日[1]
進水 1897年11月8日[5]
竣工 1899年3月30日[6][注釈 2]
除籍 1928年4月1日[1]
その後 1930年8月3日撃沈処分
要目(計画)
排水量 計画:2,800ロングトン (2,845 t)[7]
明細表記載:2,762.9ロングトン (2,807.2 t) [8]
重心公試成績:2,920.6ロングトン (2,967 t)[8][注釈 3]
垂線間長 90.00 m[9]
最大幅 12.70 m[7]
または41 ft 9+34 in (12.74 m)[3]
深さ 24 ft 11+18 in (7.60 m)[3]
吃水 計画:平均4.80 m、最大5.30 m[7]
竣工時:前部14 ft 6+12 in (4.43 m)、後部18 ft 5+716 in (5.62 m)[8]、平均16 ft 6 in (5.03 m)[3]
満載:17 ft 10 in (5.44 m)[10]
ボイラー 円缶 (片面[9]) 9基[11]
主機 直立3気筒3段レシプロ2基[12]
推進 2軸[12]、外回り[11]
出力 8,000 hp (5,966 kW)[11]
速力 強圧通風:19.5ノット (36 km/h)[7]
自然通風:17.5ノット (32 km/h)[7]
燃料 石炭:544ロングトン (553 t)[3]
乗員 1900年時:定員310名、傭人9名[13]
兵装 竣工時
6インチ速射砲英語版 2門[3]
4.7インチ速射砲英語版 6門[3]
3ポンド速射砲 10門[3]
2.5ポンド速射砲 2門[3]
14インチ魚雷発射管 2門[3]
探照灯 3基[3]
装甲 甲板水平部:34 in (19 mm)[3]
甲板傾斜部:上部1+14 in (32 mm)、下部2 in (51 mm)[3]
搭載艇 1900年時:8.53m汽艇1隻、9.14mピンネース1隻、8.5mカッター2隻、8.22mガレー1隻、8.22mギグ1隻、7.1m通船1隻[13]
その他 船材:[1]
テンプレートを表示

明石(あかし)は、日本海軍防護巡洋艦[14]。 「須磨」の姉妹艦になる[15]。 艦名は名所の名前で、明石播磨国明石郡の都の地[1]。 ここには古来から須磨・明石と並び称された景勝地「明石の浦」がある[14]

計画

[編集]

1893年 (明治26年) 3月15日、明治26年度から乙号巡洋艦 (後の「須磨」)と同型の巡洋艦を横須賀で製造する計画があるため、その製造費予算と竣工期限、改造意見があれば提出するよう、横須賀鎮守府宛てに訓令が出された[16]。 同年4月7日に製造費予算、竣工期限と改造意見が提出され[17]、 5月9日に47mm速射砲2門増の意見を除いて認許、製造が指令された[4]。 製造予算は船体部545,000、機関部458,000円、備品費29,800円、進水式費2,000円の計1,034,800円、日程は起工まで1年2カ月、進水まで2年3カ月、竣工まで1年8カ月の計5年1カ月を予定した[18]

 

 

金冷法 

「洗面器 冷水入れて 玉冷やす」

 

昨今の暑い夏、なにげなく、つくったものである。

 

こどものころ、街かどには風呂屋(銭湯)がどこにでもあり、社交場的な存在であった。

 

ある日、湯船の段になったところに爺さんが座っていた。

 

若干、前のめりになり、うつむき加減に下をながめ、視線の先には洗面器。

水面下に金玉をつけていた。

 

不思議な光景であったため、長く記憶され、その後それが「金冷法」というものであることを理解した。

 

爺さんは爺さんなりに精力をキープしたかったのか。。。

 

最近の知見によると、残念ながら

この方法により、男性ホルモンであるテストステロンは増えないという。

 

爺さんは無駄なことをやっていたのかというと、そうとも言い切れなさそうである。

 

そもそも金玉というのは、陰嚢という袋の中におさめられ、わざわざ外部に造設されている。

体温より、やや低い温度に設定される。

 

暑いと、陰嚢挙筋が弛緩し、陰嚢の表面積は増え、熱を放散させている。

 

精子にとって高温は致命的な打撃をあたえる。

正常な精子の発達をするには、32-35℃がよいと書いてある。

 

実際、自験になるが、玉袋を放射式温度計で測ってみると、体温より低い。

 

日本古来のふんどしで、かつ、着物というスタイルは、放熱効果が高く、ある意味、精子にとって理想的ではある。

 

ズボンというのは、本来、蒙古あたりの騎馬民族から出ている。

馬に乗りやすいからである。

 

この爺さんが、少子化に体を張って挑む必要性はあまりなかったと思うが、子孫を残したい若い男性は考慮すべき点であるかもしれない。。。

 

風呂で高温になった精巣を冷やすという行為は、ある意味、精子の正常発育にとって理にかなったものであると結論付けた。

 

(自分は、不妊治療の専門家ではありませんので、専門家にご相談ください。浅薄な知識で書いています。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日の昭和歌謡曲 「京都慕情」

朝、仕事部屋で、ふと口ずさんでいた。

 

なつかしい曲で、ノスタルジック、かつゆったりとした気分にしてくれる。

 

1970年かあ。。

このころ、すそが、ラッパのジーパンをみんなはいていたなあ。。

 

渚ゆう子ベンチャーズとのコラボを思い出す。

作曲はベンチャーズ

 

外国人は、よく日本と中国を混同して音楽の解釈しているものだが、この曲はまずまず日本を表しているようでしょうか。。。

 

 

以下、

参照 ウィキペディア

 

 

「京都慕情」
ザ・ベンチャーズ の シングル
初出アルバム『ゴールデン・ポップス』
A面 京都慕情
B面 別れた人と
リリース
規格 シングルレコード
ジャンル インストゥルメンタル
レーベル 東芝音楽工業(LIBERTY)
作曲 ザ・ベンチャーズ
チャート最高順位
ザ・ベンチャーズ シングル 年表
カーン・カントリー・ライン
(1970年)
京都慕情
(1970年)
うわさの男
(1970年)
 
テンプレートを表示

ザ・ベンチャーズが日本で発売したシングル。1970年11月25日発売。A面曲・B面曲共に同年2月発売のLP『ゴールデン・ポップス』からのシングルカット。

ザ・ベンチャーズインストゥルメンタル曲で、「京都の恋」に続いてザ・ベンチャーズの「京都シリーズ」第2弾として発表された。原題は「Reflections in A Palace Lake」。

近年のザ・ベンチャーズのコンサートで「雨の御堂筋」と2曲メドレーで演奏されることがある。

収録曲

[編集]
  1. 京都慕情 (REFLECTIONS IN A PALACE LAKE)
    • 当初の邦題は「パレスの夜」だったが[1]渚ゆう子への楽曲提供が決まったことで「京都慕情」に改題され、シングルA面曲として発売された。
  2. 別れた人と (WAKARETA HITO TO)
「京都慕情」
渚ゆう子 の シングル
A面 京都慕情
B面 女の指輪
リリース
規格 シングルレコード
ジャンル 歌謡曲
レーベル 東芝音楽工業
作詞・作曲 作詞: 林春生M-1
作詞: 橋本淳(M-2)
作曲: ザ・ベンチャーズM-1
作曲: 筒美京平(M-2)
チャート最高順位
渚ゆう子 シングル 年表
京都の恋
1970年
京都慕情
1970年
さいはて慕情
1971年
 
テンプレートを表示

1970年12月1日渚ゆう子がカバーし、シングルとして発売した。発売元は東芝音楽工業

解説

[編集]

オリコンのシングルチャートで8週連続1位を獲得した前作「京都の恋」に続いてザ・ベンチャーズが楽曲を提供している。外国人による作曲ながら、和風情緒溢れる雰囲気で大ヒットとなった。

京都慕情」で第22回NHK紅白歌合戦に初出場。舞妓の姿で歌唱した。「夏の紅白」ともいわれる『第36回思い出のメロディー』(2004年)に出演し、本楽曲を披露した。

坂の上の雲 再放送

先週から、「坂の上の雲」が再放送された。

 

原作は司馬遼太郎氏。

40代、渾身の作といっていいだろう。

へとへとになったという。

 

日本人の義務として書いたといわれていた。

(自分は、人生に一度はよんでもいい、日本男児必読の書ではないかと思っているのだが。。。)

 

また、戦争の作品を、

「戦術ではなく、戦略から書いたらどうなるか」ということも語られていた。

 

また、

「弱者が強者に勝つには?その過程を書いた。」とも言えそうである。

 

(この作品について話しだしたら、一本のワインを前において、一晩語りたいくらいになるのだが。。。文章力がなく、かけない。)

 

さてさて

まず、人物設定が絶妙である。

四国、伊予松山に生まれた3人の男にフォーカスされる。

薩長とはちがう、負け組の旧士族の出である。

 

二人の兄弟は軍人の世界へ、もう一人は俳句の世界へ。

ただ、根っこは同じである。

 

司馬遼太郎氏は、一人の人物に光を当てることによって、もう一人の人物が浮かび上がってくるというような書き方をよくするのだが、三者がらみの絶妙感がある。

 

その時代背景もいい。

 

明治、国民国家成立。

 

江戸時代には、国家、日本という概念はない。

日本という国家がないわけだから、日本人という意識もない。

 

皆が国民になりたいというつよい願望。

そして、その国民というものを初めて体験した、その昂揚(こうよう)感。

 

「まことに小さな国が開化期をむかえようとしている。。。」から始まる、

冒頭の渡辺謙のナレーションは圧巻。

 

この時代を、実に端的にわかりやすく、司馬遼太郎は述べている。

 

以下

一部引用

「(中略)

社会のどういう階層のどういう家の子でも、

ある一定の資格を取るために必要な記憶力と根気さえあれば、

博士にも、官吏にも、軍人にも、教師にもなりえた。

この時代の明るさは、こういう楽天主義オプティミズム)から来ている。

(以下略)」

 

 

右肩上がり、明治時代。

坂の上に浮かぶ、一朶(いちだ)の雲をめざして、がむしゃらに、のぼってゆく。

 

さて

当時の大国ロシアに戦いを挑むということは、

相撲とりに、小学生が、突っ込んでいった感じにちかい。

ただ、将来への国防戦であった。

 

(この戦は勝ったというか、あるいは痛み分けというか、

ただ、負けはしなかった。おそらく負けていれば、日本人の名前は、改名させられ、ロシア名になっていただろう。○○スキーとかに。)

 

 

しかしながら、

翻って、

そこには、「戦術」をはるかにこえた、より大きな、「戦略」という思考方法が、

明治の日本人には備わっていたと考えざるをえない。

 

司馬遼太郎氏が書きたかった主題ではないのだろうか。。。

 

残念なことだが、

その後、明治人に備わっていた思考法は、次第に日本の社会から遠ざかってゆき、先の太平洋戦争へとつながってゆくことになった。

 

その転機は、民衆の起こした日比谷焼き討ち事件に象徴されるという。

 

日本人に備わる、「自己解剖の欠如」という、国民的な病質かもしれない。

 

 

 

 

 

 

*******

以下 ウィキペディア

 

坂の上の雲』(さかのうえのくも)は、司馬遼太郎歴史小説明治維新を成功させて近代国家として歩み出し、日露戦争勝利に至るまでの勃興期の明治日本を描く。

産経新聞』夕刊に、1968年昭和43年)4月22日から1972年(昭和47年)8月4日まで1296回にわたり連載された[1]