(つづき)
年ごとに、母方祖父の軍歴をたどっている。
さて、この年、1912年は、明治45年と大正元年にまたがることになる。
明治45年7月29日に明治天皇は崩御され、翌日7月30日から大正時代が始める。
余談ながら、
この年におこった世間のニュースを少々書いてみる。
1月17日、スコット隊、南極点到達。
1月18日、白瀬隊南極点到達断念、最終到達地点を大和雪原と命名し、日の丸を立て日本領地宣言。
4月14日、タイタニック号沈没。
5月18日、日本海軍巡洋艦「金剛」進水。これが日本海軍最後の外国製の戦艦となる。
7月3日、通天閣完成。
9月13日、乃木希典、夫人とともに殉死
(メモ:司馬遼太郎氏の「殉死」という作品がある。)
10月8日、第一次バルカン戦争勃発。(第一次世界大戦への火種がでてきている。)
さてさて、
履歴にもどる。
「明治45年4月30日 海軍四等木工ヲ命ス」
前年12月、兵役に就いてから5か月を経て、四等木工になっていることになる。
さらに
「大正元年12月1日 海軍三等木工ヲ命ス」と記載されている。
四等木工になって7か月後、(兵役に服してから、計一年経過後)、三等木工となっている。
この時、21才。
そのあと、
「大正元年12月28日 馬公発 南清回航(警備) 但軍艦明石乗組」の記載。
兵役に就いて約1年間、どこで訓練されていたのかは軍歴書類上確認はできない。
記載から、三等木工になった後、軍艦明石に乗り組み、はじめて外洋に出航していることがわかる。
Wikipediaの中では、防護巡洋艦、明石の母港は、「呉」と書かれてある。
瀬戸内出身者であるため、近くの呉で、はじめの訓練を受けていたのだろうか?
あくまで推測で、詳細は不明である。
建造所 | 横須賀鎮守府造船部[1] (横須賀海軍造船廠[2])[注釈 1] |
---|---|
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 防護巡洋艦 |
建造費 | 1,191,449円[3] |
母港 | 呉[2] |
・「馬公」は、「まこう、マーゴン」。
台湾の港とおもわれ、今回の取り寄せた祖父の軍歴の中でもっともよく出てくる港名。
日本海軍の拠点軍港の一つと思われる。
日清戦争後、下関条約締結により、台湾の割譲統治が始まっているため、台湾はこの時期、すでに日本の統治下におかれている。
・「南清回航(警備)」について。
この年、1912年1月1日、孫文が南京で中華民国の設立を宣言し、臨時大総統に就任している。
清国は、同年2月12日(明治45年)に、のちの満州国に大きくかかわることになる、清朝12代皇帝、愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)の退位をもって終焉している。
(いわゆる、映画ラストエンペラーの人物。)
少々このあたり、よく調べていないので不明だが、中国の政情不安の中、なんらかの警戒警備が目的であったと推測する。
・「但軍艦明石乗組」
「但」は限定を表す言葉のようであり、
職務は、軍艦明石乗組に限定されるということだろうか。
いずれにせよ、1912年(明治45年・大正元年)、清国終焉の年、軍艦明石に乗り組み、初の出航をしていることになる。
祖父は、瀬戸内海に浮かぶ島の田舎から、兵役訓練1年後、いきなり外洋へ連れ出され、おそらく人生最大級の不安におそわれたことだろう。
それとも、日露戦争で、この7年前にバルチック艦隊を打ち破った日本海軍というものに誇りをもって、若者にありがちな浮いた気分で、得意げに出航したのだろうか。
いずれにせよ、小心な僕には、想像を絶するできごとである。
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参照
馬公
馬公市(マーゴン/まこう-し)は、台湾の澎湖諸島にある市。澎湖県の県轄市で、澎湖県政府の所在地である。台湾の歴史上最も早くから漢民族による開発が行われた地域である。
概要
[編集]馬公市内には、1592年に創建された台湾最古の廟である天后宮がある。馬公の市街はこの天后宮を中心に形成され、その街路網は現在でも残っている。天后宮以外にも、澎湖島内には150近くの寺廟がある。ただし、島民の生活が古くから海と密着したものであったことから、そのほとんどが海の神である媽祖を祀っており、島民の伝統的な生活を窺うことができる。
地理
[編集]馬公市は澎湖諸島に位置している。