先週から、「坂の上の雲」が再放送された。
原作は司馬遼太郎氏。
40代、渾身の作といっていいだろう。
へとへとになったという。
日本人の義務として書いたといわれていた。
(自分は、人生に一度はよんでもいい、日本男児必読の書ではないかと思っているのだが。。。)
また、戦争の作品を、
「戦術ではなく、戦略から書いたらどうなるか」ということも語られていた。
また、
「弱者が強者に勝つには?その過程を書いた。」とも言えそうである。
(この作品について話しだしたら、一本のワインを前において、一晩語りたいくらいになるのだが。。。文章力がなく、かけない。)
さてさて
まず、人物設定が絶妙である。
四国、伊予松山に生まれた3人の男にフォーカスされる。
薩長とはちがう、負け組の旧士族の出である。
二人の兄弟は軍人の世界へ、もう一人は俳句の世界へ。
ただ、根っこは同じである。
司馬遼太郎氏は、一人の人物に光を当てることによって、もう一人の人物が浮かび上がってくるというような書き方をよくするのだが、三者がらみの絶妙感がある。
その時代背景もいい。
明治、国民国家成立。
江戸時代には、国家、日本という概念はない。
日本という国家がないわけだから、日本人という意識もない。
皆が国民になりたいというつよい願望。
そして、その国民というものを初めて体験した、その昂揚(こうよう)感。
「まことに小さな国が開化期をむかえようとしている。。。」から始まる、
冒頭の渡辺謙のナレーションは圧巻。
この時代を、実に端的にわかりやすく、司馬遼太郎は述べている。
以下
一部引用
「(中略)
社会のどういう階層のどういう家の子でも、
ある一定の資格を取るために必要な記憶力と根気さえあれば、
博士にも、官吏にも、軍人にも、教師にもなりえた。
この時代の明るさは、こういう楽天主義(オプティミズム)から来ている。
(以下略)」
右肩上がり、明治時代。
坂の上に浮かぶ、一朶(いちだ)の雲をめざして、がむしゃらに、のぼってゆく。
さて
当時の大国ロシアに戦いを挑むということは、
相撲とりに、小学生が、突っ込んでいった感じにちかい。
ただ、将来への国防戦であった。
(この戦は勝ったというか、あるいは痛み分けというか、
ただ、負けはしなかった。おそらく負けていれば、日本人の名前は、改名させられ、ロシア名になっていただろう。○○スキーとかに。)
しかしながら、
翻って、
そこには、「戦術」をはるかにこえた、より大きな、「戦略」という思考方法が、
明治の日本人には備わっていたと考えざるをえない。
司馬遼太郎氏が書きたかった主題ではないのだろうか。。。
残念なことだが、
その後、明治人に備わっていた思考法は、次第に日本の社会から遠ざかってゆき、先の太平洋戦争へとつながってゆくことになった。
その転機は、民衆の起こした日比谷焼き討ち事件に象徴されるという。
日本人に備わる、「自己解剖の欠如」という、国民的な病質かもしれない。
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以下 ウィキペディア
『坂の上の雲』(さかのうえのくも)は、司馬遼太郎の歴史小説。明治維新を成功させて近代国家として歩み出し、日露戦争勝利に至るまでの勃興期の明治日本を描く。
『産経新聞』夕刊に、1968年(昭和43年)4月22日から1972年(昭和47年)8月4日まで1296回にわたり連載された[1]。