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「大日本軍艦明石」祖父・木工軍歴:その1 一枚の写真から

10年ほど前、帰省時、母が腰痛を起こしクリニックへ連れて行った。

 

繁盛したクリニックで待ち時間が長く、一旦自分は近所の親戚の家で待機した。

 

叔父さんが、こんな写真が出てきたと一枚の写真を差し出した。

(母方の祖父で、自分が生まれた時にはすでに亡くなっており、会ったことはない。)

 

おそらく明治海軍入隊当時の記念写真ともおもわれ?、どこかの軍港の写真館で取ったものだろうか。詳細はわからない。

 

童顔に、白いハンカチを左手に持ち洋風の椅子に手をかけ、右手は腰の後ろに持ってきて、ポーズをとっている。

 

写真はすでにセピア色に変色している。

明治24年(1891年)生まれのため、100年はこえている。

 

上下白、水兵のセーラー服のいでたちで、紺系のセーラーを胸前でとめているようにみえる。

 

左腕には、逆Vの字に一本の紺色の章。

 

その下には、両端がスパナ状、これを2本波型にしてX字状に組み合わせ、その上部には5弁の花紋がある。

 

白の水兵の帽子には、紺色のバナーがあり、昨今の書く方向とは違い、

「石明艦軍本日大」と大書してある。

 

「大日本軍艦明石」である。

明治に横須賀で建造された防護巡洋艦であり、のちの工作艦・明石とは異なる。

 

祖父の海軍時代のことについて、多くのことは伝わっていない。

 

「人間、本当につらかったことは人には語らないものである。」と私はおもう。

 

ただ大酒した際、「軍艦に砲弾があたり、一番最初に海に飛び込み、勲章をもらった」と言っていたことを母から聞いたことがある。酒席での、ほら話だったかもしれない。

 

が、確かに勲章らしきものは、神棚の中に存在していた。

 

ちょっと調べてみたいと叔父に申し出て、写真を受け取った。

 

帰宅時、新幹線で日本酒を飲みながら、ずーっとその一枚の写真をながめていた。

 

童顔の祖父が、どういう心もちでこの写真を撮ってもらっていたのか想像すると、

前胸部に軽い絞扼感が生じた記憶がある。

 

翻って、

戦争というものが、一市井のなにも知らない若者を、国家の正義という名のもとに、いとも簡単に組織に包括していく潮流に、世の中のおそろしさを感じざるをえなかった。

 

一方、その童顔をさらに見てみると、若干誇らしげに、すこし不安げに、表情筋が作動しているようにも感じとれた。

 

To be continued

 

 

 

以下、

Reference Wikipedia

 

明石 (防護巡洋艦)

 
 
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
明石
基本情報
建造所 横須賀鎮守府造船部[1]
(横須賀海軍造船廠[2])[注釈 1]
運用者  大日本帝国海軍
艦種 防護巡洋艦
建造費 1,191,449[3]
母港 [2]
艦歴
計画 1893年度予算
発注 1893年5月9日指令[4]
起工 1894年8月6日[1]
進水 1897年11月8日[5]
竣工 1899年3月30日[6][注釈 2]
除籍 1928年4月1日[1]
その後 1930年8月3日撃沈処分
要目(計画)
排水量 計画:2,800ロングトン (2,845 t)[7]
明細表記載:2,762.9ロングトン (2,807.2 t) [8]
重心公試成績:2,920.6ロングトン (2,967 t)[8][注釈 3]
垂線間長 90.00 m[9]
最大幅 12.70 m[7]
または41 ft 9+34 in (12.74 m)[3]
深さ 24 ft 11+18 in (7.60 m)[3]
吃水 計画:平均4.80 m、最大5.30 m[7]
竣工時:前部14 ft 6+12 in (4.43 m)、後部18 ft 5+716 in (5.62 m)[8]、平均16 ft 6 in (5.03 m)[3]
満載:17 ft 10 in (5.44 m)[10]
ボイラー 円缶 (片面[9]) 9基[11]
主機 直立3気筒3段レシプロ2基[12]
推進 2軸[12]、外回り[11]
出力 8,000 hp (5,966 kW)[11]
速力 強圧通風:19.5ノット (36 km/h)[7]
自然通風:17.5ノット (32 km/h)[7]
燃料 石炭:544ロングトン (553 t)[3]
乗員 1900年時:定員310名、傭人9名[13]
兵装 竣工時
6インチ速射砲英語版 2門[3]
4.7インチ速射砲英語版 6門[3]
3ポンド速射砲 10門[3]
2.5ポンド速射砲 2門[3]
14インチ魚雷発射管 2門[3]
探照灯 3基[3]
装甲 甲板水平部:34 in (19 mm)[3]
甲板傾斜部:上部1+14 in (32 mm)、下部2 in (51 mm)[3]
搭載艇 1900年時:8.53m汽艇1隻、9.14mピンネース1隻、8.5mカッター2隻、8.22mガレー1隻、8.22mギグ1隻、7.1m通船1隻[13]
その他 船材:[1]
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明石(あかし)は、日本海軍防護巡洋艦[14]。 「須磨」の姉妹艦になる[15]。 艦名は名所の名前で、明石播磨国明石郡の都の地[1]。 ここには古来から須磨・明石と並び称された景勝地「明石の浦」がある[14]

計画

[編集]

1893年 (明治26年) 3月15日、明治26年度から乙号巡洋艦 (後の「須磨」)と同型の巡洋艦を横須賀で製造する計画があるため、その製造費予算と竣工期限、改造意見があれば提出するよう、横須賀鎮守府宛てに訓令が出された[16]。 同年4月7日に製造費予算、竣工期限と改造意見が提出され[17]、 5月9日に47mm速射砲2門増の意見を除いて認許、製造が指令された[4]。 製造予算は船体部545,000、機関部458,000円、備品費29,800円、進水式費2,000円の計1,034,800円、日程は起工まで1年2カ月、進水まで2年3カ月、竣工まで1年8カ月の計5年1カ月を予定した[18]