(つづき)
まず、この年、大正2年(1913)のニュースを少々ピックアップする。
2月20日、第一次山本内閣成立。
6月10日、「森永ミルクキャラメル」が販売(こんな時からあったのか。。)
6月29日、第二次バルカン戦争勃発 (ヨーロッパがそろそろあやしいなあ。)
7月12日、中華民国で、袁世凱の専制と国民党弾圧に反対し、第二革命がおこる。
鎮圧された孫文は日本へ亡命。(中国も政情不安定。)
8月21日、東北帝国大学で3名の女性入学許可。帝大初の女子学生誕生。
9月1日、袁世凱が南京を占領。南京事件(在留日本人を殺害)。
10月6日、日本政府が中華民国を承認。
10月10日、臨時大総統であった袁世凱が正式に大総統に就任。
11月22日、徳川慶喜が感冒で死去、享年77。(長命でしたね。)
この年、
松井須磨子「カチューシャの唄」大ヒット。
東北地方、冷夏により、大凶作。
さて
軍歴・履歴にもどる。
まず、「大正2年6月3日 馬公着」とある。
この前年、「大正元年12月28日 馬公発 南清回航(警備) 但軍艦明石乗組」とあることから、約6か月回航していたことになる。
燃料や食事の補給があるだろうから、どこかの港に何度か停泊していたと想像するが、一切記載がないため、詳細は不明である。
国立公文書館あたりに、軍艦明石の航海日誌のようなものが残存していれば、もうすこし深堀りできそうな感じもする。
次に、
「大正2年7月10日 馬公発 支那回航(警備) 但軍艦明石乗組」と書かれている。
約一か月後にまた馬公から出航していることになる。
「支那」という文字が出てくる。
前年、清国がなくなっているので、「支那」という表現に変わったのかと思われる。
この出航の2日後、7月12日、独裁を強める袁世凱に対する孫文らの革命勢力が武装蜂起している。「第二革命」といわれる。
<袁世凱、北洋軍閥による軍事政権(北京政府)VS 中華民国、孫文ら民主的な政体を目指す南京を拠点とした勢力、という対立構図>
あまり自分はこのあたり詳しくないのだが。。。
それより以前、そもそも、大正元年(1911年)に、孫文らが中心となって清朝を倒し、大正2年(1912年)1月に孫文を臨時大総統とする中華民国を樹立した革命、これを「辛亥革命」、あるいは「第一革命」と呼ぶらしい。
さて
祖父が22才になり、すぐに
「大正2年11月1日 海軍二等木工ヲ命ス」と、昇格している。
「大正2年12月28日 厳島帰着」。やっと日本に戻りましたか。。。
(注意:上記、厳島のイツクの部分の漢字は、旧字体で印刷されているのだが、漢字変換できなかったため、「厳」という字で、ここでは代用する。上が口ふたつの漢字。)
調べる範囲では、このころの「支那」の政情不安定な状況が、約6か月間の、
軍艦明石の「支那回航」となったことがおおむね推測できた。
瀬戸内出身の祖父が、厳島に帰着した時には、心底ほっとしたのではないかと想像する。
(いきなり軍歴の履歴で、厳島というものが出てきた。無知識のため、wikipediaで調べた。文末要参照。少々、無知故に興味のわくものであった。)
履歴では、丸1年、台湾の馬公を拠点に、国外に出っぱなしということになるが、これが本当ならば、自分なら、おそらく発狂していた可能性が高い。
無茶すぎる。。。
あと気にかかるのは、第一次世界大戦に移行してゆく感じが、ひょっとして今の世相に少々似てはいないのかという、変な予感。。。
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参照
Reference
厳島(いつくしま)は、広島県廿日市市宮島町にある島。瀬戸内海西部、広島湾の北西部に位置する。通称は安芸の宮島(あきのみやじま)、または宮島。
概要
[編集]古代より、島そのものが自然崇拝の対象であったと考えられる。平安時代末期以降は、厳島神社の影響力の強さや海上交通の拠点としての重要性から、たびたび歴史の表舞台に登場するようになった。江戸時代中期には、丹後国(現・京都府北部)の天橋立、陸奥国(現・東北地方東部の宮城県)の松島と並ぶ、日本三景の一つに挙げられる景勝地として広く知られることにもなり、日本屈指の参詣地・観光地として栄えるようになった[3]。現在では人口1800人余りの島に国内外から年間300万人を超える参拝客及び観光客が訪れており[* 1]、2011年には、トリップアドバイザーが「外国人に人気の日本の観光スポット」トップ20の第1位と発表した[4]。原爆ドームとならんで広島県の代名詞的存在の一つである[3]。
景勝地としての厳島の中心は、厳島神社である[3]。海上に浮かぶ朱塗の大鳥居と社殿で知られる厳島神社は、平安時代末期に平清盛が厚く庇護したことで大きく発展した[3]。その社殿群の構成は、平安時代の寝殿造の様式を取り入れた優れた建築景観をなし、敷地内の神社殿は海上に立地し、海と景観に調和して配置され、中央に人工建築、手前に海、背景に山々の三位一体が組み合わさり、人工の成果と自然の要素を組み合わせた景観は他に比類がなく、これらは清盛の卓越した発想によるものである[3]。現在、本殿、幣殿、拝殿、祓殿、廻廊(いずれも国宝)などのほか、主要な建造物はすべて国宝または国の重要文化財に指定されている[3]。皇族・貴族や武将、商人たちが奉納した美術工芸品・武具類にも貴重なものが多く、中でも清盛が奉納した「平家納経」は、平家の栄華を天下に示すものとして豪華絢爛たる装飾が施されており、日本美術史上特筆すべき作品の一つとされる。厳島神社および弥山原始林は、1996年(平成8年)にユネスコ世界遺産に登録されている[3]。海岸の一部は2012年(平成24年)7月3日、ミヤジマトンボの生息地としてラムサール条約に登録された[5]。
島の最高峰・弥山(標高535メートル)山頂から望む瀬戸内海の多島美も人気があり、毎年元旦未明には初日の出を目指す人で混み合う。この地を愛した伊藤博文は「日本三景の一の真価は弥山頂上からの眺望に有り」と絶賛し、それがきっかけで明治時代後期に弥山への一般登山路が整備された。1900年(明治33年)に定期航路が開設されると、旧来の渡し船に依存していた交通が改善し、島への参拝客・観光客が急増した。
島の全域(周辺海域を含む)が1934年(昭和9年)に瀬戸内海国立公園に編入され、自然公園法が定める特別保護区域となっている。1952年(昭和27年)には国の特別史跡及び特別名勝に指定され、弥山の原始林は国の天然記念物に指定されている。
かつて島全体が佐伯郡宮島町と一致していたが、2005年(平成17年)に廿日市市と合併した。2021年(令和3年)8月2日、厳島神社付近の町並みは「廿日市市宮島町伝統的建造物群保存地区」として重要伝統的建造物群保存地区に選定された[6]。
名称
[編集]
「いつくしま(厳島、異表記:嚴島、嚴嶋ほか)」という地名は、「イツク(斎く。意:心身のけがれ[* 2]を除き、身を清めて神に仕える)+ シマ(島)」から来ていると考えられており、厳島神社の祭神の筆頭に挙げられる女神・イチキシマヒメ(市杵島姫)[* 3]の名に由来するか、少なくとも同根語である。厳島神社縁起の伝えるところでは、スサノオ(素戔男)の娘とされる宗像三女神、すなわち、イチキシマヒメ(市杵島姫)、タゴリヒメ(田心姫。タキリビメの別名)、タギツヒメ(湍津姫)の3柱は、2羽の神鴉(しんあ。神使の鴉〈カラス〉)に導かれ、現在厳島神社のある場所に鎮座した。
島の名として「嚴嶋大明神」のように平安時代からの用例がある。江戸時代前期の寛永20年(1643年)に儒学者・林春斎(林鵞峰)が著した『日本国事跡考』のうちの陸奥国のくだりにある、いわゆる「三処奇観(さんじょきかん)」の一文にもその名が見える。この景観評価は「日本三景」の由来となった。
宮島
[編集]「みやじま(宮島、異表記:宮嶋ほか)」という地名は、江戸時代以降のもので、「ミヤ(宮(神社)+ シマ(島)」を意味する。「宮島」は同名他所の地名でもあるので、安芸国(芸州)の宮島に特定する意をもって「安芸宮島/安芸の宮島(あきのみやじま)」などと呼ばれることも多い。江戸時代中期の寛保2年(1742年)の伊予松山藩の座頭記録には「芸州宮嶋江参詣……」とある。
この島の名称について、「厳島」と「宮島」が使い分けられているが、明確な基準はない。測量を所掌する国土地理院は「厳島(いつくしま)」の名称を用いる。一方で島内の約8割を占める国有林を管理する林野庁[7]、周辺海域を含めた国立公園を管理する環境省[8]は「宮島(みやじま)」の名称を用いている。読みやすさと漢字の平易さから観光PR等においては「宮島」が選ばれやすい傾向がある。
地方自治体としても、1889年(明治22年)の町制施行時には「厳島町」であったが、第二次世界大戦後の1950年(昭和25年)には「宮島町」へ変更されるなど、行政地名にも揺れがあった。学術書や公文書の多くで「厳島」が用いられる一方、観光事業などでは「宮島」が多用される傾向がある。ただし、観光振興に関連する行政文書が「宮島」を用いたり、旅行ガイドが歴史の長さや荘厳さを演出する意図を持って「厳島」を用いる例外もある。これら表記の併存は江戸時代中期には見られた。以下に実例をあげる。
ここからは、地名(藩政村名・行政村名など)や作品(絵図、浮世絵、新版画など)の題名における併存の実例を、時系列で記載する。使われている旧字体(藝、國、圖、繪、會、禮)は全て新字体に変換する。異字・俗字はそのまま表記する[9]。
- 源通親 『高倉院嚴島御幸記』/不明
- 貝原益軒 『安芸国厳島図』/享保5年(1720年)作。
- 長沢芦雪 『絹本淡彩宮島八景図』/寛政6年(1794年)款記。
- 北尾重政 『浮絵安芸国佐伯郡厳嶋図』/18世紀後期に刊行。
- 歌川豊広 『日本三景』/文政年間(1818-1830年間)に刊行。
- 歌川国貞 『紅毛油絵風 安芸の宮島』/文政8年(1825年)刊行。
- 歌川広重 『六十余州名所図会 安芸 厳島 祭礼之図』/嘉永6年(1854年)刊行。
- 歌川広重 『国尽張交図会 十五 安芸宮嶋』/幕末直前に刊行。
- 歌川広重 団扇絵『日本三景 安芸 厳島』/嘉永5年-安政4年(1852-1858年)中に刊行。