(つづき)
明治44年から海軍に徴兵された祖父の履歴を、引き続き追ってみる。
その前に、
大正3年(1914年)の世間の動きを少々見てみる。
桜島大噴火、東京駅完成、第一次世界大戦勃発、パナマ運河開通の年。
祖父にとって、初めての「戦役従事」がはじめることになる。
以下、この年の出来事を
Wikipediaから少々ピックアップしてみる。
1月5日 フォードモーターが従業員8時間労働と日給5ドルの最低賃金導入
1月12日 桜島大噴火。対岸の大隅半島と接続。(火山灰は東北地方まで観察。)
3月19日 辰野金吾設計の東京駅新築落成。
3月24日 第一次山本内閣総辞職。(シーメンス事件による。)
4月1日 現在の宝塚歌劇団にあたる、宝塚少女歌劇の第一回公演。
4月20日 夏目漱石「こころ」連載開始。(→2年後に死去。胃潰瘍。)
6月28日 サラエボ事件(→第一次世界大戦への直接的な引き金となる。)
7月8日 孫文らが東京で中華革命党を結成。(孫文、日本に亡命中。)
第一次世界大戦がはじまる。
7月31日 日本初のエスカレーター登場。
8月12日 英国が日本の対独参戦に同意。
8月15日 パナマ運河開通式。
8月23日 大日本帝国がドイツに宣戦布告。
9月1日 日本がドイツ租借地の山東省上陸。(青島の戦いへ。)
10月1日 三越呉服店新装開店。エスカレーターとライオン像が話題。
第一回二科展。
12月29日 伊藤忠合名会社設立。
日付不詳
エドガー・ライス・バローズの「ターザン」
*****
さてさて、
実際の祖父の大正3年(1914年)の軍歴の履歴をみてゆく。
まず、
「大正3年4月4日 呉発 旅順回航(警備) 但軍艦明石乗組」との記載。
前年の12月28日に厳島に帰着してから、4か月後、呉を出港しているようだ。
このころの旅順というのはどういう状況だったのだろう。
あまり詳しくないのだが。。
遼東半島の最西部(突端部)に旅順は位置している。
そのころのドイツ租借地の山東省とは、黄海を挟んで対側に旅順は位置している。
日露戦争後、ポーツマス条約により、清に対する租借権を正式にロシアから引き継いでいる。したがって、この時点では旅順は日本の租借地ということになる。
(1945年、ソ連が侵攻するまでそのような状況と思われる。)
「旅順回航」ということから、対岸に位置するドイツ租借地山東省への警戒と想像する。
次に
「大正3年9月1日 ヨリ大正3,4年戦役従事 但軍艦明石乗組」という記載。
履歴のなかで初めて「戦役従事」という文字が出現する。
7月28日に、オーストリアが、セルビアに宣戦布告し、戦火が広がり、第一次世界大戦がはじまることになる。
8月23日に大日本帝国がドイツに宣戦布告。
9月1日には、ドイツ祖着地・青島への攻略戦がはじまる。日英の連合軍が攻略。
軍艦の大半は日本海軍である。
日本の戦争ではじめて航空機が投入された戦いと言われている。
日時は祖父の履歴と一致している。
この青島の戦いへ参加軍艦に、明石は名を連ねていた。
青島の戦いは、11月7日で停戦。
この停戦6日前に
「大正3年11月1日 海軍一等木工ヲ命ス」とあり、昇格している。
さて、青島の戦いでドイツ兵捕虜は、日本の収容所に、1919年まで長期にわたり、収容された。
よく言われていることだが、とくに徳島の板東俘虜収容所では地元住民との交流があったという。
各地に点在した収容所のドイツ人から、のちに、ドイツパン、バウムクーヘン、楽器演奏、ベートーベンの第九、鉄棒体操などが広まることになる。
バウムクーヘンを広めることになった、カール・ユーハイムは捕虜の一人で、日本にとどまり、彼の事業を継承するのが、現在の株式会社ユーハイムである。
戦争というものが実に不思議なのは、国家の戦いであって、その個人そのものにはなんら遺恨があって戦ったわけではないということである。
戦争は国家というものの負の産物である。
以下、列記。
「大正3年11月15日 ヨリ警備 但軍艦明石乗組」
青島停戦から、一か月、一旦佐世保に戻っていることがわかる。
「大正3年12月5日 自 戦役内地服務 但軍艦明石乗組」
「大正3年12月18日 至」
「大正3年12月19日 佐世保発 大正3,4年戦役従事 但軍艦明石乗組」
佐世保に帰着してから「戦役内地服務」とあり、その詳細は不明であるが、2週間後、また佐世保をたち、二回目の「大正3,4年戦役従事」という記載がみられる。
正月なしかあ。。。
うーん、よくやるねえ。。ハンモック生活。(爺さん、茶化してすみません。)
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