(さて、また祖父の軍歴履歴をみていく。)
まず時代背景を少々確認する。
Wikipediaで1915年を検索。
自分の知らないおもしろい事件や記載があり、さらに検索していると、本題になかなか入れなくなる。
(知りたいという欲求には、インターネットというのはありがたいものである。
が、あふれる情報ゆえ、誤情報の判定が最も大事にも感じられる。
ある意味、おそろしい時代でもある。)
<1915年(大正4年)のできごと> 書き抜き。
参照:Wikipediaから。
(影の声:刀で生きた人が亡くなった2週間後には、ヨーロッパでは。以下。)
1月19日 第一次世界大戦 ドイツが英本土をツェッペリン飛行船で空爆。
2月4日 ドイツが英国周辺を指定し、Uボートによる無制限潜水艦戦開始。
4月22日 ドイツが毒ガス使用。フランス兵15000人が中毒、うち5000人死亡。
5月9日 袁世凱政権が日本の対華21か条要求を受諾。
5月23日 イタリアが連合国側として参戦
(→影の声:勝ちそうな方へ寝返った形かと)。
5月25日 梁瀬長太郎が梁瀬商会(現在のヤナセ)設立。
7月某日 アメリカがハイチ占領。
(影の声:ちょっとだけ読んだけど、欧米はめちゃくちゃしとるな。。)
7月某日 英国が戦後のアラブ独立を約束(フサイン・マクマホン協定)。
→「イギリスの三枚舌外交」。
(影の声:English gentlemenかい ???)
アラブ人のパレスチナへの移住も認めた協定で、
その後の「パレスチナ問題」の要因。
8月17日 反ユダヤ主義(レオ・フランク事件)
群衆が刑務所より拉致し、リンチ殺害
(→影の声:このユダヤ問題は、歴史が長すぎ、欧米では根が深い。)
8月18日 第一回全国中等学校優勝野球大会開幕(のちの高校野球。)
(→影の声:真剣に熱中症対策やらんと、球児や観客あぶないよ。
高野連、死者出てから動くんかい。若干の医師の見解含む。)
このあたりの世界の出来事を読んでいると、現在、世界で起きている戦争を、欧米諸国がよく非難できるものだと思ってしまうのは、私だけであろうか。。。
面の皮が厚すぎる。
わしらはリアリズムで生きとるのじゃと、でも反論するのか。。。
幕末から特に明治を生きた日本人。
銭もないのに、国民が切り詰めて切り詰めて、欧米列強という獣から、一身独立しようとした日本。
薄氷を踏みながら、よくやったとしか、評価のしようがないと小生は感じる。
さてさて、
祖父の軍歴履歴に見ることにする。
この年、大正4年(1915年)の履歴は、以下の三行である。
1.「大正4年9月25日 馬公着」
2.「大正4年9月29日 馬公発 支那揚子江回航(警備) 但軍艦明石乗組」
3.「大正4年10月3日 六連島帰着」
この年の前年(前回その6での記載)、
「大正3年12月19日 佐世保発大正3、4年戦役従事 但軍艦明石乗組」の記載があるため、上記1での記載から、台湾の馬公に9か月経過してから帰港していることになる。
9か月も、一体どこへいっていたのだろう。
防護巡洋艦明石、wikipedia、から読んでみると、このあたりの記述は一行程度である。
青島攻略戦後、南シナ海、インド洋の作戦に参加したと書いてある。
推測では、南シナ海を中心に回航していたのだろうか。
1月、日本が中華民国の袁世凱政権に対華21か条要求し、5月に受諾されたとのことであるため、中国方面での活動があったものと推測する。
上記1の記述の後、2の記述から、馬公に帰ってたった4日後、あわただしく馬公を出港し、支那揚子江口回航とある。
次の、上記3の記述から、6日後には、また「六連島」に帰着している。
六連島というのは実は知らなかったのであるが、「むつれじま」。
明治天皇が視察されたというイギリス式の六連島灯台があり、戦前は下関要塞の一部として砲台があり、太平洋戦争では高射砲部隊が存在したようである。
海軍の港として機能していたと思われる。
今回の記述した1915年、大正4年というのは、第一次世界大戦が開始され2年目の年ということになる。
また、中国の袁世凱政権との関連が祖父の属した海軍の動きと連動しているようにおもわれた。
前年の青島攻略の完了以前(1914年10月)には、ドイツ領南洋諸島(赤道以北)の占領は完了しているようであり、おそらくその方面への参加はしていなかったのではないかと推測する。
さてさて
年表からかんじとれる、
この第一次世界大戦時の、ドイツの兵器の先進性のすざまじさはどうだろう。
ヨーロッパがこれを骨身にしみ込むまで体験した一方、日本は皮膚にかすった程度にしか体験せずに、第二次世界大戦へ入り込んでゆくことになる。
結果はすでに出ている。
他との比較を忘れた組織は、やはり、残念ながら崩壊する。
また
余談だが、
中学の時の社会科の先生が、「太平洋戦争などせず、このあたりでやめていれば、わしは南洋小島の酋長として生きて行けたはずだったのだ。」と残念がって言われていたのを思い出す。
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<六連島>
参照
Reference
六連島
六連島 | |
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六連島(右)と馬島(左、別名「小六連島」)2021年撮影
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所在地 | 日本 |
所在海域 | 響灘 |
所属諸島 | 響灘諸島 |
座標 | 北緯33度58分31秒 東経130度51分55秒 |
面積 | 0.69 km² |
海岸線長 | 3.9 km |
最高標高 | 104 m |
六連島 (山口県)
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プロジェクト 地形 |
六連島(むつれじま)は、山口県下関市の響灘諸島に属する島である[1]。
概要
[編集]下関市の西約4キロメートルに位置し[1][2]、彦島の北西約5キロメートルに浮かぶ溶岩台地の島[3]。面積0.69平方キロメートル、周囲3.9キロメートル、最高地点の標高104メートル[4]。2019年(平成31年)4月1日の住民基本台帳によると、人口は90人、世帯数は42世帯[5]。
六連島の隣約300メートルに福岡県北九州市小倉北区の馬島がある。馬島は六連島との対比より江戸時代には別名「小六連島」と呼ばれた。この両島間の海峡が県境となる[6]。
六連島の地質は第三紀層および火山活動によりその地層を貫いて中央に噴出した玄武岩からなる[2][7]。溶岩台地で水はけがよく、気候も温暖なことから、野菜のほか草花のハウス栽培がなされている[3]。
歴史
[編集]縄文時代後・晩期、弥生時代前・中期、古墳時代におよぶ遺物が、1955年(昭和30年)[3]、六連島南西部の音次郎地区より発見されており、音次郎遺跡(六連島遺跡)と称される[8]。
日本書紀の仲哀紀(巻第八 仲哀天皇 足仲彦天皇)には「没利島(もとり〈もつり〉しま)」として登場し[9]、平安中期の能因歌枕には「牟都留能志麻」と表記されている。
1872年1月(明治4年11月)に、イギリス帝国の技術を導入した、高さ約11メートルの洋式石造の六連島灯台が建設され、7月(明治5年6月)に西国行幸中の明治天皇が視察している[10]。
戦前には、下関要塞地帯の一角として砲台が築かれ、第二次世界大戦中には高射砲部隊も駐留していた。島の最高所には、2009年(平成21年)まで海上自衛隊六連警備所が置かれていた。六連警備所の先に、前述の六連島灯台がある。漁港脇には大東タンクターミナル株式会社六連油槽所があり、大小合計19基の石油タンクが設置される[11]。
島名
[編集]六連島の名のいわれには次の3つがある[3]。
- 周囲に馬島、金崎島、片島、和合良島など大小6つの島が連なっているためという説[12]。
- 6人の入植者がこの島の土地を分けるために縄で島を6等分したという説[12]。
- 韓国語の「モッアール(ムツアル[8]、集落)」が転訛したという説[12]。
このほか、日本書紀にある「没利」を「六連」の字に改めたことが考えられる[8]。
また、島の形がカニの甲に似ることから「蟹島」とも呼ばれた[8]。
産業
[編集]農業、特に草花のハウス栽培が盛んであり、花卉(かき)運搬船で下関市や北九州市の市場に出荷されている[13][14]。
交通
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最新情報をご確認ください。
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下関市竹崎町の竹崎桟橋より、下関市営渡船にて1日4往復(夏季5往復)、定期連絡船が運航されている。
所要時間約20分。現在、運賃は大人370円、子供190円[15]。
名所
[編集]施設
[編集]- 六連島漁港
- 大東タンクターミナル六連油槽