(引き続き、祖父の軍歴を追ってゆく。タイトルの「大日本軍艦明石」というのは、祖父の水兵軍装写真での帽子のバナーに書かれた文字からとっている。)
さて
この年、大正5年、1916年は、第一次世界大戦の半ばの年であり、ヨーロッパでは戦闘激化を迎えている時期である。
(第一次世界大戦は、1914年7月から1918年11月まで、実に約4年4か月と長い期間でおこなわれた。)
この年の祖父の軍歴履歴は、書類上、7行である。
年ごとの記載としては、もっとも多い。
(祖父にとって、瀬戸内のおだやかな島から徴兵後、丸4年経過して、5年目にはいる。
この年の末、24才から25才になっている。)
以下、履歴。
1.「大正5年1月2日 馬公発 「スル」海方面回航(警備) 但軍艦明石乗組」
2.「大正5年3月8日 馬公着」
3.「大正5年3月30日 馬公発 香港回航(警備)但軍艦明石乗組」
4.「大正5年4月8日 馬公着」
5.「大正5年4月15日 馬公発 印度洋方面回航(警備) 但軍艦明石乗組」
6.「大正5年8月27日 馬公着」
7.「大正5年9月5日 馬公発 新嘉坡方面回航(警備)但軍艦明石乗組」
この年の動きを見てゆくと、新年正月早々(1月2日)馬公出港。
(前年の10月3日に下関の六連島(むつれじま)に帰着した履歴あり。
その間すこしは、帰省することはあったのだろうか。)
この年の記載では、すべて、台湾の「馬公」(まこう、マーゴー)を拠点に動いている。
(以前書いたが、このころは台湾は日本の統治下におかれている。)
「スル」海、香港、印度洋、新嘉坡(=シンガポール)と、各方面への警備回航をしている。
「スル海は、スールー海、Sulu sea」のことで、東南アジアにある西太平洋の一海域。
フィリピンの南西部、マレーシアの北東に位置している。
印度洋など、かなり広範囲での警戒をおこなっている。
はじめて、「新嘉坡」(=シンガポール)という言葉がでてきている。
少々自分が調べた範囲では、
「ドイツ東洋艦隊」というものが存在していたが、この年の前年にあたる1915年3月あたりまでには、すでにほぼ消滅状態にあったと思われる。
(有名な「エムデン」という、単独で、インド洋方面で大暴れした軽巡洋艦も、1914年末には大破座礁している。この時期にはすでにいない。)
また、3月末、袁世凱が帝政を取り消し、短期間で帝国崩壊。
中国の政情不安定。
日本海軍は、引き続き警戒を広範囲で行っていたということであろうか。
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いつもと順序が逆転したが、
この年の出来事。(第一次世界大戦の「戦い」がおおいのだが、ほとんど省略した。)
<大正5年、1916年>
以下、
1月17日 全米プロゴルフ協会創立
2月11日 エマ・ゴールマンが産児制限運動により、逮捕される
3月22日 袁世凱が帝政を取り消し
(→イギリスから独立をはかろうとしたはじめの出来事か。
その昔、クロムウェルがめちゃくちゃしよったからなあ。。。
がんばれ、文学と妖精の国、アイルランド。
アイルランドの歴史をわかりやすく知りたければ、
その中で、アイルランドは「百戦百敗の国」であるという
衝撃的な記述がある。)
(→ここの歴史を見ると、欧米はめちゃくちゃしとるよ。。。)
7月15日 ボーイング社創業(米シアトル)
10月9日 寺内内閣成立
(→ ビリケンに顔がにていたらしい。)
12月9日 夏目漱石 死去
12月10日 大山巌 死去
12月29日 ロシアで、祈祷僧グリゴリー・ラスプーチン暗殺。
日付不詳
夏目漱石「明暗」
この年には、
そろそろ
「明治も遠くなりにけり。」というかんじであろうか。。。
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参照 Reference
<スル海>
スールー海(スールーかい、英: Sulu Sea、またはスル海)は、東南アジアにある西太平洋の一海域。
概要
[編集]フィリピンの南西、マレーシアの北東に位置する。北西はパラワン島で南シナ海と、南東はスールー諸島でセレベス海と隔てられている。南西はカリマンタン島、北東はビサヤ諸島。
スールー海にはクーヨー諸島、カガヤン諸島、カガヤンデタウィタウィ島などの島がある。
近代以前から、島や国を超えて住民や交易船が行き来してきた。太平洋戦争では戦場になった。近年はイスラム過激派の移動ルートとして使われている可能性が浮上。このため2017年6月19日、フィリピンやマレーシアは、南のセレベス海に面するインドネシアのタラカンに三国の合同警備司令センターを設置し、テロリストなどを警戒する海空のパトロールを開始した[1]。
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イースター蜂起(イースターほうき、英語:Easter Rising、アイルランド語:Éirí Amach na Cásca[1])は、1916年の復活祭(イースター)週間にアイルランドで起きた武装蜂起である[2]。日本では復活祭蜂起とも呼ばれる。この蜂起はイギリスの支配を終わらせ、アイルランド共和国を樹立する目的でアイルランド共和主義者たちが引き起こしたものである。1798年の反乱以降にアイルランドで起きた最大の反乱であった。
蜂起はアイルランド共和主義同盟(IRB)の軍事部門によって組織され、復活祭週月曜日の4月24日から30日まで続いた。教師であり弁護士のパトリック・ピアースに率いられたアイルランド義勇軍、ジェームズ・コノリーに率いられたアイルランド市民軍、200人の女性連盟(Cumann na mBan)がダブリンの主要部を占拠して、アイルランド共和国の英国からの独立を宣言した。アイルランドの他の地域でも幾つかの行動が起こされたが、アッシュボーン兵舎(ミース県)への襲撃以外は小規模なものであった。
蜂起は7日間の戦闘の後に鎮圧され、指導者たちは軍法会議にかけられて処刑されたが、共和主義者の武力闘争主義をアイルランド政治の中核に置くことに成功した。1918年の英国議会総選挙(アイルランド島全土での最後の英国議会選挙)で、ウェストミンスターへの登院拒否と独立を標榜する共和主義者は105議席中73議席を得た。これは蜂起から2年足らずで起こったことである。1919年1月、この時まだ獄中にあった蜂起の生き残りを含むシン・フェイン党の国会議員は第一回アイルランド国民議会(First Dáil)を開催し、アイルランド共和国の樹立を宣言した。英国政府は新たに宣言された国家の承認を拒否し、アイルランド独立戦争へ突入することになる。