しばし呆けていたら、このブログを書くことから、数か月ほどはなれてしまっていた。。。
さて
昨今、米国とウクライナの首脳の話し合い。
テレビで見ていて、「うーん。。。」という気持ちに陥った。
この「うーん」というものは。。。
自分のなかで、いったいどういう心理的背景があるのだろうとずーっと考えている。
(小生、歴史や政治というものを論じられるような人間ではなく、素人です。)
うーん、「国家」とは、という永遠のテーマみたいなもの。
自分のような素人には、到底結論はでないものと想像する。
しかしながら少々。
以下、
なにかしら、本棚から、昔読んだ、司馬遼太郎氏の「明治という国家」というものを引っ張り出してきた。
(この本は日本人なら一度は読むべき本だと自分では思っている。)
馬齢を重ね少々落ち着いたら、また読もうと、brand newのまま保管していたものである。
帯もついたままで、キャッチコピーが書いてある。
一部引用する。
<「明治」は、清廉で透き通った”公”感覚と「道徳的緊張」=モラルをもっていた。>
とある。
本文をよむと、”公”感覚のところは”リアリズム”と置き換えられる。
「清廉」には私欲がないという意味も含まれる。
「道徳的緊張」という言葉を聞くと、はっとして、自分のことが恥ずかしくなり、背筋が伸びてくるような気もする。そういう言葉である。
さてさて
翻って、
世界が大いに混沌とする中、建国約250年のアメリカ国民はもとより、明治維新からすでに150年を超えたわれわれ日本人も、もう一度、国民国家というものの原点を思い返す時期ではないのだろうか。。。