<ここで書いていることは、作家・遠藤周作氏の著書からの引用と自分の体験からのものです。>
氏は、若いころから肺結核により幾度となく疾病療養という、生活上の「停滞」を余儀なくされた。
順調に仕事がのりはじめると、また入院ということを経験された。
苦悩しながらも、しかしながら、くさることなく、そのたびに思索深慮の習慣がついたという。
自分はいつもおもうことだが、病気になるということは、実は単一の厄介なものを背負うという事だけでなく、将来への「不安」という、非常に厄介なものとも同時に対峙しなければならないということである。
すなわち、患者にとってみれば、身体だけでなく心、両者をあわせた心身の病ということである。
(この考えは、自分の疾病入院体験からもきている。)
さて、
病中病後の「不安」というものを少し軽くしてくれるかもしれない、氏のエッセイを以前みつけたので、少々抜き書きしてみたい。
これを読んで実は自分はすくわれた。
「(中略)、私は生活と人生とは違うとその頃から考えるようになった。
病気は生活上での挫折であり失敗である。
しかしそれは必ずしも人生上の挫折とは言えないのだ。
なぜなら生活と人生とは次元がちがうからである。
病気という生活上の挫折を三年ちかくたっぷり噛みしめたおかげで、私は人生や死や人間の苦しみと正面からぶつかることができた。
これは小説家にとって苦しいが貴重な勉強と体験だった。
少なくともそのおかげで、人間と人生を視る眼が変わってきた。
今に思うと『沈黙』という私にとって大事な作品はあの生活上の挫折がなければ、心のなかで熟さなかったに違いない。
更に入院生活という経験で私は患者の心理がどんなものかを身をもってしることができた。」
上記の文章は、それ以後、現在臨床経験40年になる自分の心の支えであり、患者を診るうえで、「目に見えない部分を観察する」ことの大切さを思い返させてくれる。
さらに
氏は「私は医師や看護婦と力をあわせ、<心あたたかな病院>を作ろうとする活動をやっている。」と、書かれていた。
医療経済に毒された昨今の日本の医療界、余裕のなくなった医療界に、早い時期から気づかれて活動をされていたのである。
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参照
遠藤 周作(えんどう しゅうさく、1923年〈大正12年〉3月27日 - 1996年〈平成8年〉9月29日)は、日本の小説家。日本ペンクラブ会長。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。
11歳の時カトリック教会で受洗。評論から小説に転じ、「第三の新人」に数えられた。その後『海と毒薬』でキリスト教作家としての地位を確立。日本の精神風土とキリスト教の相克をテーマに、神の観念や罪の意識、人種問題を扱って高い評価を受けた。ユーモア小説や「狐狸庵」シリーズなどの軽妙なエッセイでも人気があった。
「心あたたかな医療」
1980年代半ばから始めた「心あたたかな医療」運動は、自らの大病歴から生まれたものでもあったが、それを提唱する直接のきっかけとなったのは「お手伝いさんの死」だった。20代半ばのお手伝いさんが骨髄ガンで亡くなった。医者から1ヶ月の命と宣告され、お手伝いさんが入院した時、遠藤自身も、蓄膿の手術の後で、上顎ガンの疑いがあるということで、検査のため同じ病院に入院していた。不確定な死の陰に怯える男が、確実に死ぬと分かっている彼女のために出来ることは、彼女に嘘をついて励ますこととせめて、安楽に死なせてやってほしいと交渉することだけだった。自らも、彼女の苦しみを少しでも和らげるためならと禁煙を決意、実行した。
彼女の死後/自らの上顎ガンの疑いが晴れた後、延命治療の方法論や医者の無神経から発する行為に疑問を抱き、それらは是正すべきものであるという「心あたたかな医療」運動を展開した。現在、その活動は確かに引き継がれ、根を張り始めている。