Dr.FeelGoodの小部屋

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政治屋と私心(わたくしごころ):幕臣・小栗上野介(忠順)のことなど

最近の政界の動き。

 

現在日本には政権交代して国を任せることができる、「健全なる野党」など存在せず、思い上がりもいいところであり、そのくせ、己の思惑・私心のみに固執する輩(やから)の多いことに、心をいためている。

 

国政の運営責任能力もないものが政権をとるということは、国を博打の対象にした戦前の旧日本陸軍がやったことと、根の部分や無責任さでは相違ないのではないのか。。。

 

(あえて、こういう輩を政治家と呼ばず、政治屋といっている。

政治家とはstatemanであり、政治屋とはpoliticianと、自分は区別している。)

 

国家百年の計、今後の日本、真に次世代・次々世代のことを考えて、行動しているのかという疑問を感じるのは、小生だけではなかろう。

 

さて

かつて、私心を排した人たちが存在したということを思い出してみたい。

小生が好きな話をすこし書いてみたい。

 

幕臣勝海舟が、幕府の葬式を整然とやってくれた人物とするならば、もう一人の幕臣小栗上野介(こうずけのすけ)は、負け組となる幕臣ながら、明治維新後につながる遺産をあたえてくれた人物と言っていいだろう。

 

司馬遼太郎氏によると、両人とも日本のピルグリム・ファーザーズ(Pilgrim Fathers、建国の父たち)の一員といってもいいと言う。

 

幕末、幕府瓦解という方向にむかう機運の中、イギリスは薩長につき、フランスは幕府につくという構図があった。

 

幕府は、当時軍事・財政のトップにあった小栗の進言により、海軍強化のためフランスから多額の借金をし、フランス・ツーロン港を模し、横須賀造船所(当時横須賀製鉄所と称した)の建設に乗り出す。

 

さて、

横須賀ドック工事の目鼻がついたある日、元治元年(1864年)12月中旬のよく晴れて風の激しい日こと。

 

幕臣・栗本瀬兵衛(栗本雲(じょううん):日本人として初めてアルプスに踏み入れた人物ともいわれる)

と出会った小栗は、「瀬兵衛どの、瀬兵衛どの」と呼び止め、

 

「あのドックが出来上がった上は、たとえ幕府が滅んでも、<土蔵付き売り家>という名誉を残すでしょう。」

 

と言ったという。

 

たとえ自分たちが滅びても、単なる売り家でなく、付加価値の高い家を、次の政権へ引き継げるのでよかったというのである。

 

この話を思い出すたびに、この情景が目の前に現れるような感覚におそわれ、前胸部がすこし絞扼されるような気分になる。

 

この数年後には大政奉還がなされるわけであり、小栗はすでにこの時期には、幕府の世が終わることを十二分にわかっており、次の政権に、今後必須となる工業基盤をのこし、引き継ぐ配慮をなしたといえよう。

 

政治家として、小栗には私心なく、次の世のために、まさに<土蔵付き売り家>をのこしてくれたということである。

 

以下余談ながら、

幕府が瓦解し薩長の世の中になった後、明治政府が最初にやった仕事は、横須賀造船所の建設で生じた莫大な借金をフランスから、イギリス系銀行へ借り換えることから始まったという。

 

当然、新興の今後どうなるかもしれない新政府に対し、今のサラ金よりも高い利息でしか応じてもらえなかったという。

 

明治人たちが偉いと思うのは、輸出できるものは絹くらいしかない中で、涙ぐましい努力と辛抱により、コツコツと滞ることなく返済し続け、世界での「信用」というものを勝ち取ってくれたことである。

感謝というほか言葉がない。

 

(余談ながら、単なる私事になるが、

自分の祖父は、この横須賀造船所初期の建造艦である巡洋艦「明石」に乗り、第一次世界大戦時、ドイツのUボートに対峙するため、「第二特務艦隊」の旗艦として、地中海マルタまで出向くことになった。

この横須賀ドックうまれの「明石」に7年も乗船していたことも、国から取り寄せた軍歴からわかっている。

余談ながら、地中海マルタには、その当時戦死された日本人の慰霊碑が残されており、1921(大正10)年に皇太子だったころの昭和天皇、2017(平成29)年には当時の首相であった安倍首相が訪れられている。

祖父の青年時代、マルタで従軍していたころを想像してみたいため、自分も訪問したいと思っていたが、もう体力的にも無理そうである。)

 

最後に、

混迷する現在の政界。

私心なき政治家の出現、そしてそういう者たちが優位に政界に存在することを強く期待する。

 

 

<参照>

wikipedia

 

 
小栗 忠順

主な業績・人物

安政7年(1860年)、日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米し、地球を一周して帰国した。その後は多くの奉行を務め、江戸幕府財政再建や、フランス公使レオン・ロッシュに依頼しての洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行う。

徳川慶喜の恭順に反対し、薩長への主戦論を唱えるも容れられず、慶応4年(1868年)に罷免されて領地である上野国群馬郡権田村(群馬県高崎市倉渕町権田)に隠遁。同年閏4月、薩長軍の追討令に対して武装解除に応じ、自身の養子をその証人として差し出したが逮捕され、翌日、斬首[5][6]。逮捕の理由としては、大砲2門・小銃20挺の所持[7]と農兵の訓練が理由であるとする説や、勘定奉行時代に徳川家の大金を隠蔽したという説(徳川埋蔵金説)[8]などが挙げられるが、これらの説を裏付ける根拠は現在まで出てきていない。

のちに、明治政府中心の歴史観が薄まると小栗の評価は見直され、大隈重信東郷平八郎からは幕府側から近代化政策を行った人として評価されている。司馬遼太郎は小栗を「明治国家の父の一人」と記した[9]