(小生、政治など難しいことを知らない人間ですが、すこし書きたいことが。。。)
最近のテレビの報道などにつけ、以前から感じてきたことだが、
日本の政治に欠如しているのは、「健康、健全な野党が存在しないこと」ではないのかと。。。
さて、
この野党における「健全さ」とはどういうことをさしているのだろうか。。。
(阿呆なりにすこし考えてみたい。)
小生は、与党に対する「健全なる批判勢力の存在」が必要と思っているにすぎない。
まず、少々、回り道にはなるが、ナショナリズム(nationalism、国家主義)と愛国主義(patriotism)について、素人の自分がおもっていることを少々。。。
前者の、「ナショナリズム」は、平易にいうならば、お国自慢であり、組織自慢であり、家族自慢であり、自分自慢といったたぐいの、その程度のレベルの低いものである。
一方、「愛国主義」というのは、前者のレベルをはるかにこえたところに存在し、高尚な位置付けにあり、一般的にもそのように理解されている。
少々道をそれるが、「愛国」という言葉は、歴史が非常に浅い言葉で、明治にでてきた言葉らしい。(それ以前には、日本には、国という概念がなかったから。)
明治における自由民権運動、大日本帝国憲法発布、議会政治の誕生という流れの中で、国民国家成立において、「国民の一員として、国政に参加させよ」「自分にも愛国をさせよ」という国民の強い願いから生じた言葉である。
大正末期からの軍部台頭、太平洋戦争という流れの中で、戦後の左のイデオロギー(イデオロギー=酩酊状態と自分は理解している)により、本来の意味での「愛国」という言葉が大きくゆがめられ見聞されるようになっている。
自分で求めない限り、だれも上記のようなことを教えてくれる人はいなくなった。
この「健全」なる政治精神とは、包括して、真に国のことを想う気持ち(前述した本来のあるべき愛国精神)から生じる言動や行動ではないかと想像している。
国家維持のために、薄氷を踏むように、大切におもうこころともいえるのではないか。
最近の某野党(過去に政権担当後崩壊、現在は主義主張のちがう烏合寄せ集めの残党)俗称・イオン・オ○ダ氏(ネットからの引用)の国会質問で注目されるべきは、この人物や政党において、その背骨やバックグラウンドに、国をおもう精神が欠落している点である。
結果生じるものは、単なる撹拌と放置、国民への無責任さ。。。
アクションとそのあと生じるリアクションの予想、imaginationの欠如。
国会での議論というのは、西洋文化由来のディベート(debate、根拠がなくとも論破した方が勝ちという議論)ではなく、真の日本をおもう精神による、ダイアログ(dialogue、対話)を行うべきものであり、現在はまさにそういう時代であると、野党はすこしは勉強し認識すべきである。
(余談として、戦後新聞記者をしていた司馬遼太郎氏によると、戦後、過激な言葉、たとえば、「撃滅」や「反動」というような、軍人が好んで使うような扇動的文言を多用していたのは左のイデオロギーの人々であったという。)
明治期、在野人として、福澤諭吉という、時代や社会を大局的かつ客観視できた人物が存在したが、「野党は、実現不可能な無理難題を煽るのではなく、政府が実現可能なことを提案し、議論すべきである。」と言われていたそうである。
将来の日本の次世代、次々世代のためにも、政治における野党のあり方を考える機会になってほしい。