もし人から「君は阿呆かね」と問われたなら、私は、おそらくさして狼狽もせず、「はい、かなりの程度において阿呆であります」と答えるであろう。
いや、むしろ、そう答えるほうが気が楽である。
人間というもの、ある年齢に達すると、自分の愚かさについては、学歴や肩書とは別個に、かなり正確な見当がつくようになるものらしい。
私は近ごろ、ときどきテレビという妙な箱を眺めながら、つくづく考える。
世の中には、ずいぶん立派な学校を出ていながら、そのこととはまるで関係なしに、実に見事な阿呆さを発揮しておられる方々が少なくない。
これはなかなか壮観である。
ニュースのコメンテーターと称する人々は、いかにも深遠な表情を浮かべて、昨日聞いたようなことを今日またしゃべっている。
朝日などオールドメディアの政治談義にいたっては、書生さながら、何やら国家百年の計を論じているつもりのようだが、その実、床屋の待合室の世間話に少々毛が生えた程度のものである。
さらに野党議員の先生方のご高説となると、これはもう一種独特の味わいがある。
何でもかんでも反対し、現実に実行するにはむずかしい夢物語を、いとも簡単そうに言い放つ。
聞いているとその阿保さ加減というもの、吉本新喜劇よりおかしい。
世の中というものは、もう少し単純で、もう少し善意だけで動くものであったら、どんなによかったろうになあとおもったりもする。
しかし残念ながら、現実というものはたいてい鈍重で、融通がきかず、しかも人の言うことをあまり聞かない。それくらいのこと、どうしてわからないのかい。
こうした人々をぼんやり眺めていると、私自身の阿呆さも、これは案外、世間全体の平均値から見れば、それほどひどいものではないのではないか、という、まことに都合のよい安心感が胸に満ちてくるのである。
自分の愚かさを、他人のさらに大きな愚かさによって慰めるというのは、あまり品のよい話ではない。
だが人間というものは、おそらくそういう小さな比較級の幸福によって、どうにか正気を保って生きているのではあるまいか。
要するに、私も阿呆である。
しかし、世間には私以上に、もっとのびのびと、もっと自信たっぷりに阿呆でいられる人が、ずいぶんたくさんいるらしい。
そう思うと、私は少しばかり元気が出るのである。
天才バカボンのパパも言っていた。
「それでいいのだ。」