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「大日本軍艦明石」祖父・木工軍歴: その9の2 大正6年 (1917年)の履歴 「第二特務艦隊」について(参照文献:Wikipedia) 

(少々、年末の疲れもあり、先日寝込み、今回Wikipediaを丸々引用する。

さるまた失敬。←かなり古い時代のギャグで、これまた失敬。

そのほか、自分がしらべたものは、今後また別稿として、記載することにする。)

 

 

引用

Wkipedia

 

 

第二特務艦隊

 
 
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

第二特務艦隊(だいにとくむかんたい)とは、日英同盟に基づいて日本第一次世界大戦連合国側で参戦した際、マルタ島を中心とする地中海海域において連合国側の輸送船団護衛作戦に従事した日本海軍の遠洋派遣部隊である[1]。 後述の通り、この艦隊の戦果は欧州の各国首脳に達し、直接戦火を交えなかったにもかかわらず第一次大戦終結後においてヴェルサイユ体制下での連合国戦勝国)としての「五大国」への仲間入りや国際連盟での常任理事国就任に大きな役割を果たした。

概要

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1917年1月11日に英国政府から地中海で激化するドイツUボート艦隊による通商破壊戦から輸送船舶を護衛するため艦隊の派遣要請を受けた大日本帝国海軍は、同年2月に要請に応じることを決定、明石を旗艦として第十駆逐隊 () および第十一駆逐隊 () の駆逐艦 計8隻からなる艦隊が編成され、第二特務艦隊として地中海に派遣された。第十一駆逐隊には後にイギリス海軍からH級駆逐艦2隻(橄欖、栴檀)も貸与運用された。

佐藤皐蔵少将を司令官とする第二特務艦隊は同年4月13日にマルタに到着し、終戦までの約1年半に渡り輸送船団の護衛任務にあたった。同年8月には出雲と当時最新鋭の桃型駆逐艦4隻 () からなる第十五駆逐隊が増援として派遣され、旗艦が出雲に変更された。終戦までに348回の船団護衛に従事し、護送した軍艦・輸送船は英国籍を主として延べ788隻、護送人員は75万人に及んだ[2]

折しも2月1日にドイツが英仏周辺および地中海での無制限潜水艦作戦を宣言し、地中海は輸送船団にとってさながら地獄の様相を呈していたことから日本海軍の来援は大いに期待されており、実際にイギリス海軍地中海艦隊上層部からは高い評価 (後述) を受けている。

トランシルバニア号救出翌日の駆逐艦

5月4日には、「松」と「榊」が護衛中のイギリス兵員輸送船トランシルヴァニアUボートの雷撃を受けた。両艦は沈没しつつあるトランシルヴァニアに接舷して生存者の救助にあたった。当時イギリス海軍は、被雷した僚艦を救助しようとして接近した2隻が雷撃を受け、3隻とも撃沈され6,000人が戦死する事態が起きたことから被雷時の救助を一切禁じていた。このため、Uボートがまだ付近を遊弋しているであろう状況で被雷船に接舷・救助するなど危険極まりなく、考えもつかないことであった。さらに両艦の乗組員は救助の労苦にもかかわらず、収容した英兵に進んで自らの衣類や食料、寝所まで提供したため、英兵から大いに感謝されたという[3]。 この行動に対し、「松」と「榊」には海軍大臣ウィンストン・チャーチルから深い謝意を表する電報が届けられた他、両艦の艦長以下20数名には英国王ジョージ5世から勲章が授与された[3]

マルタ共和国旧英国海軍墓地 (現英連邦墓地) にある修復直後の日本海軍第二特務艦隊戦没者の墓

6月11日には「榊」がクレタ島沖でUボートの雷撃を受けて艦橋を含む艦首1/3が吹き飛び、艦長上原太一中佐以下59名が戦死した。「榊」は自力航行不能になっていたが、英駆逐艦リブル英語版に曳航されてクレタ島のスーダに入港、応急修理が行われた。戦没者の遺品・遺骨は6月19日に「松」に乗せてマルタに送られ同地で埋葬された。収容しきれなかった遺灰はいったんスーダに埋葬されたが、マルタに戦没者全員を合葬することになり、翌年6月9日に「榊」の戦没者59人の他、派遣以来の戦病死者14名を加えた73名が祀られている[3][1]

1921年4月25日、当時皇太子だった昭和天皇欧州訪問の際、マルタ島にて慰霊を行った[1]

2014年には艦隊派遣100周年を迎えたことから日本国内でも再度注目が集まり、欧米諸国の研究者からも新たな学術論文が発表され、第二特務艦隊に関する研究が進んだとされる[4]

功績

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第二特務艦隊は地中海における連合国の船団輸送維持に多大な貢献をし、連合国の勝因の一つとなった。日本は欧州の陸戦には一切関与しなかったが、この功績をもって連合国五大国の一つとしてパリ講和会議への参加が認められ、ヴェルサイユ条約でドイツのアジア権益を信託統治領として勝ち取ることができた。また、1920年国際連盟常任理事国となった。

第一次世界大戦後、日本国内では第二特務艦隊での活躍から桃型駆逐艦は功勲艦として知られるようになった。司令官であった佐藤皐蔵少将は、この武勲によって中将に進級した。イギリス本国においても大手新聞紙が「世界三大提督」(ジョン・ポール・ジョーンズ東郷平八郎ホレーショ・ネルソン) の名を挙げて佐藤少将の健闘ぶりを伝えたという。また、輸送船団の船長には「第二特務艦隊の護衛がなければ出港しない」と言い張る者まで現れた[3]。佐藤少将は大正期の日本海軍職業軍人として最も著名な人物の一人となり、連合国の元首・首脳から対同盟国戦勝への貢献に対して勲章や謝辞を受けた。特に地上戦で国土が戦場となったベルギー王国からは、連合国戦勝への多大な貢献に対してベルギー王冠勲章英語版グランド・オフィサー章が授与された。この勲章は佐藤の郷里である岩手県花巻市に寄贈されている。

また、第二特務艦隊による船団護衛作戦の成功は、日本製駆逐艦の性能を実績をもって証明することになった。ただし、フランス海軍が日本にアラブ級駆逐艦12隻 (樺型同型艦) を発注したのは第二特務艦隊が地中海に到着する前であり、「第二特務艦隊の活躍により駆逐艦輸出に成功した」とするのは正しくない[5]。一方で、アラブ級駆逐艦の引き渡しは1917年7月から始まっており、トランシルヴァニア号の救助で名を馳せた「榊」、「松」の同型艦として活躍を期待されたであろうことは想像に難くない。

評価

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当時のイギリス海軍地中海艦隊英領マルタ軍港司令官であったジョージ・アレクサンダー・バラード少将は、戦間期に著した第一次世界大戦の地中海戦線の回顧録の中で「日本海軍第二特務艦隊」について以下のように言及して讃えている。

我々英国海軍地中海艦隊は、同盟国イタリア及びフランス海軍とは、意見の不一致や戦略思想のズレから、しばしば摩擦を生じていたが、遥々東洋から到着したはずの日本の第二特務艦隊はそうではなく、勤勉なる日本海軍の佐藤司令官は、我々との意思疎通を欠かさずに行い、常に要望に応えてくれ、何の問題もなく任務を遂行したし、彼らは稼働率において我が軍と並ぶ優秀さを見せていた。フランスの稼働率はイギリスに比べて低く、イタリアはフランスよりもさらに低かったが、日本海軍は日露戦争における日本海海戦の結果に対しても納得できる練度の高さを証明した。

また、地中海艦隊司令サマセット・ゴフ=キャルソープ英語版中将は、海軍省に「佐藤司令官は常に要求に応じるべく艦隊を即応体制に維持し、彼の部下は常に任務を満足に遂行している」、「日本艦隊は言うまでもなく素晴らしい」という報告を送っている[3]

同じ連合国で、国際連盟常任理事国として日本やイギリスと共に「5大列強国」となったイタリア及びフランス海軍も、日本の第二特務艦隊が日英同盟の規定に従ってイギリスの船しか護衛しないことに不満を感じはしたものの、その戦いぶりとイギリスから借り受けた損耗補てん分の駆逐艦を十分に活かした活躍は認めていたようで、当時のフランス海軍母校トゥーロン軍港では、戦勝後に第二特務艦隊の歌が造られ、地元新聞で取りあげられた事もあった。

横須賀から出立した乗組員は相当な苦労をしながらもインド洋を横断して中東アラビア海を通過し、スエズ運河を抜けてエジプトアレクサンドリア港で補給するという、当時の大日本帝国海軍において例のない遠洋航海を完遂し、大正期海軍「桃型駆逐艦」の乗組員は地中海世界における大日本帝国海軍知名度向上に大いに貢献した。また、日本海軍上層部将校らは、既に国際共通語となっていた英語やフランス語を習得し、当時の列強海軍幕僚らとの交流を通じて、連合国艦隊の一部として活動するにあたって各国海軍における仕来たりや文化を理解するなど、様々な経験を積むことができた。この時に得た人脈・航行経験・語学および慣習に関する知識は、その後国際化していく日本海軍の組織における基礎的教訓として、長く活かされることとなった。

第二特務艦隊の派遣は、連合国の国際協力作戦の成功事例として、セーヴル条約やその後の希土戦争を経て今日のトルコ共和国が建国されるまでの歴史的な潮流において、地中海全体に大きな影響を与えた(「ガリポリの戦い」および「桃型駆逐艦」も参照)。

その後

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  • 2017年(平成29年)5月27日マルタ島を訪問した安倍晋三総理大臣旧日本海軍戦没者墓地において慰霊を行った[6]
  • 2019年2月15日には、第二特務艦隊に参加し、帰国を前に立ち寄ったイギリスのポートランド島で不慮の死を遂げた原田浅吉二等兵曹の没後100年追悼式が、日英海軍関係者が出席して行われた[7]。これは、2018年9月に同地の大学生から駐英大使に「原田兵曹が亡くなって来年で100年になり、何らかのお供えをしたい」というメールが寄せられたことから実現したもので、式にはこの大学生も出席して「国のために戦った人は尊敬されて眠るべき」と述べた[1]

脚注

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  1. a b c d 防衛研究所 2019.
  2. ^ 地中海で戦った日本海軍兵 特務艦隊 出動せよ!!【前編】 [Imperial Navy]”. ジャパン・ジャーナルズ. 2019年2月18日閲覧。
  3. a b c d e 地中海で戦った日本海軍兵 特務艦隊 出動せよ!!【後編】 [Imperial Navy]”. ジャパン・ジャーナルズ. 2019年2月18日閲覧。
  4. ^ “「地中海で戦ったこと忘れないで」甦る日本艦隊への評価 地中海の小国マルタ 第一次大戦開戦100年”. 産経ニュース. (2014年8月3日)
  5. ^ 第二特務艦隊のマルタ到着は前述の通り1917年4月13日であり、受託建造協定はその2週間前の1917年3月29日に締結された
  6. ^ 外務省 2017.
  7. ^ 第一次世界大戦の「地中海の守護神」 日本海軍兵曹 英ポートランド島で追悼式”. 産経新聞 (2019年2月16日). 2019年2月18日閲覧。

出典

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関連項目

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外部リンク

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「大日本軍艦明石」祖父・木工軍歴: その9の1 大正6年 (1917年)の履歴 「第二特務艦隊 地中海遠征」

(祖父の軍歴を、引き続き、たどってゆくことにする。

親戚もまったく知らない祖父の軍歴というものを、すこしずつ調べて、自分への手紙のような感じで書いているだけである。)

 

第一次世界大戦は、半ばを過ぎ、後半に入る年。

この年は、祖父にとって、軍歴上、最も大きなできごとが起こることになる。

 

日本海軍が地中海に派遣した、「第二特務艦隊」に参加したことである。

 

 

以下、この年、大正6年(1917年)の軍歴履歴は、二行である。

 

 

大正6年3月11日 新嘉坡発 戦地戦務(2カ年加算)但軍艦明石乗組」

                    

                  (新嘉坡=シンガポール

 

大正6年10月22日 横須賀帰着」

 

 

軍歴履歴の中で、はじめて、「戦地戦務」という言葉が出てくる。

 

しかも、「2ヶ年加算」ということも書かれている。

 

(これが自分なら、「やばいなあ、これは。」と思ってしまうわけであるが、明治人の祖父は、どう思ったのか。。。時代背景や場の雰囲気が、人の精神まで包括してしまうのであれば、実におそろしく思われ、かつ、最終的には祖父はやはりあきらめたことであろう。

もし祖父がたとえ楽天的な人間であったとしても、この時、腹をくくったはずである。少々思考する頭の回路が存在したならば、死の危険を感じ、自分は何のために死ぬのか、と少しは思ったはずである。また、その意味合いや理由付けも探そうとしたはずである。)

 

 

少々詳細は、今後、何回かにわけて書くとして、

この当時の「日英同盟」のもと、英国の要請により日本海軍は、小編成ながら、第一次世界大戦の中心地ヨーロッパ地中海への遠征をおこなっている。

 

地中海で商船に対する通商破壊行為をおこなっていた、最新兵器ともいえる、ドイツ海軍の「Uボート」(潜水艦)と対峙することになる。

 

この遠征のため、急遽、日本海軍は「第二特務艦隊」を結成、「明石」はその旗艦となって参戦する。

 

祖父が、はるばる地中海マルタまで戦に行っていたことなど、親族の話として、まったく子孫の自分たちには伝わっていない。

 

その軍歴を調べるまで、まったく誰も知らないことであった。

 

(以前にも書いたが、)

 

<人間というものは、本当につらかったことは、人には語らぬもの。>

 

何も自分たちに伝わっていないこと自体が、その答えを示すものと推測する。

 

 

さてさて、多くを書く前に、

また、この年、大正6年(1917年)がどのような社会の出来事があったかピックアップし列記してみる。

(このころは、世界中がおかしいですなあ。。。)

 

(参照:wikipedia その他)

 

 

1月11日 第一次世界大戦:駐日英国大使が日本艦隊の欧州派遣を本野一郎外相に要請

    (→ これが祖父の軍歴履歴と関係してくる。)

 

1月17日 アメリカがデンマークからヴァージン諸島を2500万ドルで買収

     (→ 現在も所有、まあ好き放題やっているという感じ。)

 

1月31日 ドイツが無制限潜水艦作戦の開始を発表

 

2月7日 日本海軍が欧州派遣に向け第1・第2特務艦隊を編成

 

2月12日 神戸衛星実験所(のちの、ビオフェルミン製薬)設立

 

     (→ 小生診療で軽度下痢には現在でも処方しています。)

 

2月24日 イルマ殺し

     (→ 詳細内容割愛しますが、調べると読んでしまう内容。) 

 

3月11日 日本海軍第2特務艦隊がシンガポールを出発

 

     (→ 祖父の軍歴履歴で、日付と出港地とも一致。)

 

 

3月15日 ロシア革命:臨時政府樹立。ニコライ2世が皇帝を退位。(ロマノフ朝滅亡)

     

4月6日 米国が第一次世界大戦へ参戦、ドイツへ宣戦布告。

   (→ 米大統領ウィドロー・ウィルソン:戦争を終わらせるための戦争と?

最近どこかで聞いたようなレトリックではないのか? 世の常。)

 

5月15日 東洋陶器(現、TOTO)設立

 

5月17日 バレエ「パラード」がパリで初演。台本ジャン・コクトー、音楽エリック・サティ、美術衣装パブロ・ピカソ

   (→ すごいメンバー。ヨーロッパは戦争中だが、やはり心の清涼剤は必要。)

 

6月17日 味の素創立(鈴木三郎助:(株)鈴木商会設立)

 

6月30日 アニメ映画「なまくら刀」公開(現存日本最古のアニメ)

 

7月6日 対オスマン帝国反乱軍がアカバ奪取

     (→ 映画「アラビアのロレンス」参照。)

 

7月25日 日本光学工業株式会社設立(現、ニコン

 

9月1日 日本煉乳株式会社創立(現、森永乳業

 

9月30日 東京湾岸一帯で高潮水害

 

10月13日 ポルトガル、ファティマで「太陽の奇跡」が起こる

 

     (→ なんじゃこれ?? 文末参照ウィキぺディア)

 

11月2日 イギリスがバルフォア宣言を発表

     ユダヤ人国家建設を約束することに同意

 

     (→ うーん、これはのちのち問題になりますなあ。。

連合国側へ米国を参戦させるため、米国世論を変化させようと、ユダヤ人をからめた英国の策。)

 

11月7日 ロシア10月革命(十一月革命)ソビエト政権樹立

 

     (→ ロシア暦はすこし通常のグレゴリオ暦とずれる。

 

(メモ:そもそも、ソビエトとは何ぞや?  ロシア革命時のロシア帝国において、社会主義者の働きかけもありながら、主として自然発生的に形成された労働者農民兵士評議会(理事会)とのことらしい。)(参照 wikipedia)

 

11月20日 ウクライナ人民共和国が独立宣言

     (→ この名の国は3年で終わる。)

 

12月6日 フィンランドがロシアから独立を宣言

 

     (→ 以前読んだ本の中に、この年から12年まえになる1905年に、日本海軍がロシア・バルチック艦隊を、ほぼパーフェクトゲームで撃滅した時には、フィンランド人は、1週間ほど仕事もせず、毎日大騒ぎをしたと書いてあった。)

 

 

以下、日付不詳事項:

 

神戸市を中心に、天然痘流行 (患者5000人超え、死者935名)

 

(→ 1980年ごろにWHOの撲滅宣言があったのを覚えていたのだが、専門領域でもなく、多くを知らない疾患。

 

近年、生物兵器としての危険性から、アメリカなどでは、ワクチンの備蓄が進んでおり、全米国民に提供できるまで準備完了しているとのことである。

 

相変わらず、日本政府は呑気に構えているのだろうか?

(すでに対応しているのなら、失敬。)

 

人が死んでから、初動する国、日本。

外圧でしか、動かない日本政府。

 

相変わらず、歴史はかわらないのかな。。。)

 

 

さてさて

祖父の参加した「第二特務艦隊」というのは、通人以外、あまり大きく知られていないようなのだが、一応資料も残っており、素人ながら少々調べて、記載を続けてみたい。

 

 

To be continued.

 

以下

参照

Wikipedia

「太陽の奇跡」?

 

ファティマでの聖母マリアによる幻影の間、太陽を見つめる民衆(Ilustração Portuguesa、1917年10月29日号より)

太陽の奇跡(たいようのきせき、ポルトガル語milagre do sol、別名:ファティマの奇跡)は、1917年10月13日に、3人の羊飼いの子供たちによる予言に反応してポルトガルファティマに集まった群衆が立ち会う中で発生したと報告されている現象である。予言の内容は、その日に聖母マリアファティマの聖母と呼ばれる)が現れて奇跡を行うというものだった。新聞は、太陽が空中を「ダンス」するように、またはジグザグに動いた、地上に向かって突き進んだ、色とりどりのまばゆい光を放ったというような、異常な太陽の活動を目撃したという人々の証言を発表した。これらの報告によると、この現象は約10分間続いた。

 

 

 

 

 

 

「大日本軍艦明石」祖父・木工軍歴: その8 大正5年(1916年)の履歴

(引き続き、祖父の軍歴を追ってゆく。タイトルの「大日本軍艦明石」というのは、祖父の水兵軍装写真での帽子のバナーに書かれた文字からとっている。)

 

さて

この年、大正5年、1916年は、第一次世界大戦の半ばの年であり、ヨーロッパでは戦闘激化を迎えている時期である。

 

第一次世界大戦は、1914年7月から1918年11月まで、実に約4年4か月と長い期間でおこなわれた。)

 

この年の祖父の軍歴履歴は、書類上、7行である。

年ごとの記載としては、もっとも多い。

 

(祖父にとって、瀬戸内のおだやかな島から徴兵後、丸4年経過して、5年目にはいる。

この年の末、24才から25才になっている。)

 

以下、履歴。

 

1.「大正5年1月2日 馬公発 「スル」海方面回航(警備) 但軍艦明石乗組」

 

2.「大正5年3月8日 馬公着」

 

3.「大正5年3月30日 馬公発 香港回航(警備)但軍艦明石乗組」

 

4.「大正5年4月8日 馬公着」

 

5.「大正5年4月15日 馬公発 印度洋方面回航(警備) 但軍艦明石乗組」

 

6.「大正5年8月27日 馬公着」

 

7.「大正5年9月5日 馬公発 新嘉坡方面回航(警備)但軍艦明石乗組」

 

 

 

この年の動きを見てゆくと、新年正月早々(1月2日)馬公出港。

 

(前年の10月3日に下関の六連島(むつれじま)に帰着した履歴あり。

 その間すこしは、帰省することはあったのだろうか。)

 

この年の記載では、すべて、台湾の「馬公」(まこう、マーゴー)を拠点に動いている。

 

(以前書いたが、このころは台湾は日本の統治下におかれている。)

 

「スル」海、香港、印度洋、新嘉坡(=シンガポール)と、各方面への警備回航をしている。

 

「スル海は、スールー海、Sulu sea」のことで、東南アジアにある西太平洋の一海域。

フィリピンの南西部、マレーシアの北東に位置している。

 

印度洋など、かなり広範囲での警戒をおこなっている。

 

はじめて、「新嘉坡」(=シンガポール)という言葉がでてきている。

 

少々自分が調べた範囲では、

「ドイツ東洋艦隊」というものが存在していたが、この年の前年にあたる1915年3月あたりまでには、すでにほぼ消滅状態にあったと思われる。

 

(有名な「エムデン」という、単独で、インド洋方面で大暴れした軽巡洋艦も、1914年末には大破座礁している。この時期にはすでにいない。)

 

また、3月末、袁世凱が帝政を取り消し、短期間で帝国崩壊。

中国の政情不安定。

 

日本海軍は、引き続き警戒を広範囲で行っていたということであろうか。

 

 

*****

いつもと順序が逆転したが、

この年の出来事。(第一次世界大戦の「戦い」がおおいのだが、ほとんど省略した。)

 

<大正5年、1916年> 

以下、

 

1月17日 全米プロゴルフ協会創立

 

1月29日 第一次世界大戦ツェッペリンがパリを初空爆

 

2月11日 エマ・ゴールマンが産児制限運動により、逮捕される

 

3月22日 袁世凱が帝政を取り消し

 

4月24日 アイルランドイースター蜂起

 

    (→イギリスから独立をはかろうとしたはじめの出来事か。

      その昔、クロムウェルがめちゃくちゃしよったからなあ。。。

 

      がんばれ、文学と妖精の国、アイルランド

      アイルランドの歴史をわかりやすく知りたければ、

      司馬遼太郎氏「アイルランド紀行」という名著あり。

      その中で、アイルランドは「百戦百敗の国」であるという

      衝撃的な記述がある。)

 

5月5日 アメリカがドミニカ共和国に侵攻

    (→ここの歴史を見ると、欧米はめちゃくちゃしとるよ。。。)

 

7月2日 第一回サッカー南米選手権コパ・アメリカ)開催

 

7月15日 ボーイング社創業(米シアトル)

 

10月9日 寺内内閣成立

     (→ ビリケンに顔がにていたらしい。)

上記同日 明治製菓(当時の社名東京菓子)創立

 

12月9日 夏目漱石 死去

12月10日 大山巌 死去

12月29日 ロシアで、祈祷僧グリゴリー・ラスプーチン暗殺。

     

日付不詳

     森鴎外高瀬舟

     夏目漱石「明暗」

 

 

この年には、

夏目漱石大山巌の死去もあり、

そろそろ

「明治も遠くなりにけり。」というかんじであろうか。。。

 

 

*****

参照 Reference

Wikipedia

<スル海>  

アイルランドイースター蜂起>

 

 

スールー海(スールーかい、Sulu Sea、またはスル海)は、東南アジアにある西太平洋の一域。

概要

[編集]

フィリピンの南西、マレーシアの北東に位置する。北西はパラワン島南シナ海と、南東はスールー諸島セレベス海と隔てられている。南西はカリマンタン島、北東はビサヤ諸島

スールー海にはクーヨー諸島カガヤン諸島カガヤンデタウィタウィ島などの島がある。

近代以前から、島や国を超えて住民や交易船が行き来してきた。太平洋戦争では戦場になった。近年はイスラム過激派の移動ルートとして使われている可能性が浮上。このため2017年6月19日、フィリピンやマレーシアは、南のセレベス海に面するインドネシアタラカンに三国の合同警備司令センターを設置し、テロリストなどを警戒する海空のパトロールを開始した[1]

 

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アイルランド

 

イースター蜂起イースターほうき、英語Easter Risingアイルランド語Éirí Amach na Cásca[1])は、1916年復活祭イースター)週間にアイルランドで起きた武装蜂起である[2]。日本では復活祭蜂起とも呼ばれる。この蜂起はイギリスの支配を終わらせ、アイルランド共和国を樹立する目的でアイルランド共和主義者たちが引き起こしたものである。1798年の反乱以降にアイルランドで起きた最大の反乱であった。

蜂起はアイルランド共和主義同盟IRB)の軍事部門によって組織され、復活祭週月曜日の4月24日から30日まで続いた。教師であり弁護士のパトリック・ピアースに率いられたアイルランド義勇軍ジェームズ・コノリーに率いられたアイルランド市民軍、200人の女性連盟(Cumann na mBan)がダブリンの主要部を占拠して、アイルランド共和国の英国からの独立を宣言した。アイルランドの他の地域でも幾つかの行動が起こされたが、アッシュボーン兵舎(ミース県)への襲撃以外は小規模なものであった。

蜂起は7日間の戦闘の後に鎮圧され、指導者たちは軍法会議にかけられて処刑されたが、共和主義者の武力闘争主義をアイルランド政治の中核に置くことに成功した。1918年の英国議会総選挙アイルランド島全土での最後の英国議会選挙)で、ウェストミンスターへの登院拒否と独立を標榜する共和主義者は105議席中73議席を得た。これは蜂起から2年足らずで起こったことである。1919年1月、この時まだ獄中にあった蜂起の生き残りを含むシン・フェイン党国会議員は第一回アイルランド国民議会First Dáil)を開催し、アイルランド共和国の樹立を宣言した。英国政府は新たに宣言された国家の承認を拒否し、アイルランド独立戦争へ突入することになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「大日本軍艦明石」祖父・木工軍歴: その7 大正4年(1915年)の履歴

(さて、また祖父の軍歴履歴をみていく。)

 

まず時代背景を少々確認する。

Wikipediaで1915年を検索。

 

自分の知らないおもしろい事件や記載があり、さらに検索していると、本題になかなか入れなくなる。

 

(知りたいという欲求には、インターネットというのはありがたいものである。

が、あふれる情報ゆえ、誤情報の判定が最も大事にも感じられる。

ある意味、おそろしい時代でもある。)

 

 

<1915年(大正4年)のできごと> 書き抜き。

参照:Wikipediaから。

 

1月5日 永倉新八(元、新選組)死去 75才。

 

 (影の声:刀で生きた人が亡くなった2週間後には、ヨーロッパでは。以下。)

 

1月18日 日本が中華民国袁世凱政権に対華21か条要求。

 

1月19日 第一次世界大戦 ドイツが英本土をツェッペリン飛行船で空爆

 

2月4日 ドイツが英国周辺を指定し、Uボートによる無制限潜水艦戦開始。

 

4月22日 ドイツが毒ガス使用。フランス兵15000人が中毒、うち5000人死亡。

 

5月9日 袁世凱政権が日本の対華21か条要求を受諾。 

 

5月23日 イタリアが連合国側として参戦

    (→影の声:勝ちそうな方へ寝返った形かと)。

 

5月25日 梁瀬長太郎が梁瀬商会(現在のヤナセ)設立。

 

7月某日 アメリカがハイチ占領。

     (影の声:ちょっとだけ読んだけど、欧米はめちゃくちゃしとるな。。)

 

7月某日 英国が戦後のアラブ独立を約束(フサイン・マクマホン協定)。

                

              →「イギリスの三枚舌外交」。

                  (影の声:English gentlemenかい ???)

      アラブ人のパレスチナへの移住も認めた協定で、  

      その後の「パレスチナ問題」の要因。

 

8月17日 反ユダヤ主義(レオ・フランク事件)

     米アトランタで少女殺害容疑で服役中のユダヤ系受刑者を

     群衆が刑務所より拉致し、リンチ殺害

     

     (→影の声:このユダヤ問題は、歴史が長すぎ、欧米では根が深い。)

 

8月18日 第一回全国中等学校優勝野球大会開幕(のちの高校野球。)

 

     (→影の声:真剣に熱中症対策やらんと、球児や観客あぶないよ。

        高野連、死者出てから動くんかい。若干の医師の見解含む。)

 

日付不詳 芥川龍之介羅生門

 

 

このあたりの世界の出来事を読んでいると、現在、世界で起きている戦争を、欧米諸国がよく非難できるものだと思ってしまうのは、私だけであろうか。。。

面の皮が厚すぎる。

わしらはリアリズムで生きとるのじゃと、でも反論するのか。。。

 

幕末から特に明治を生きた日本人。

銭もないのに、国民が切り詰めて切り詰めて、欧米列強という獣から、一身独立しようとした日本。

薄氷を踏みながら、よくやったとしか、評価のしようがないと小生は感じる。

 

 

 

さてさて、

祖父の軍歴履歴に見ることにする。

 

この年、大正4年(1915年)の履歴は、以下の三行である。

 

1.「大正4年9月25日 馬公着」

 

2.「大正4年9月29日 馬公発 支那揚子江回航(警備) 但軍艦明石乗組」

 

3.「大正4年10月3日 六連島帰着」

 

この年の前年(前回その6での記載)、

大正3年12月19日 佐世保発大正3、4年戦役従事 但軍艦明石乗組」の記載があるため、上記1での記載から、台湾の馬公に9か月経過してから帰港していることになる。

 

9か月も、一体どこへいっていたのだろう。

 

防護巡洋艦明石、wikipedia、から読んでみると、このあたりの記述は一行程度である。

青島攻略戦後、南シナ海、インド洋の作戦に参加したと書いてある。

推測では、南シナ海を中心に回航していたのだろうか。

 

1月、日本が中華民国袁世凱政権に対華21か条要求し、5月に受諾されたとのことであるため、中国方面での活動があったものと推測する。

 

上記1の記述の後、2の記述から、馬公に帰ってたった4日後、あわただしく馬公を出港し、支那揚子江口回航とある。

 

次の、上記3の記述から、6日後には、また「六連島」に帰着している。

 

六連島というのは実は知らなかったのであるが、「むつれじま」。

山口県下関市響灘諸島に属する島と思われる。

 

明治天皇が視察されたというイギリス式の六連島灯台があり、戦前は下関要塞の一部として砲台があり、太平洋戦争では高射砲部隊が存在したようである。

海軍の港として機能していたと思われる。

 

今回の記述した1915年、大正4年というのは、第一次世界大戦が開始され2年目の年ということになる。

また、中国の袁世凱政権との関連が祖父の属した海軍の動きと連動しているようにおもわれた。

 

前年の青島攻略の完了以前(1914年10月)には、ドイツ領南洋諸島(赤道以北)の占領は完了しているようであり、おそらくその方面への参加はしていなかったのではないかと推測する。

 

さてさて

年表からかんじとれる、

この第一次世界大戦時の、ドイツの兵器の先進性のすざまじさはどうだろう。

 

ヨーロッパがこれを骨身にしみ込むまで体験した一方、日本は皮膚にかすった程度にしか体験せずに、第二次世界大戦へ入り込んでゆくことになる。

結果はすでに出ている。

他との比較を忘れた組織は、やはり、残念ながら崩壊する。

 

また

余談だが、

中学の時の社会科の先生が、「太平洋戦争などせず、このあたりでやめていれば、わしは南洋小島の酋長として生きて行けたはずだったのだ。」と残念がって言われていたのを思い出す。

 

 

*****

<六連島>

参照

Reference

Wikipedia

 

六連島

六連島
六連島(右)と馬島(左、別名「小六連島」)2021年撮影
所在地 日本
所在海域 響灘
所属諸島 響灘諸島
座標 北緯33度58分31秒 東経130度51分55秒
面積 0.69 km²
海岸線長 3.9 km
最高標高 104 m
六連島の位置(山口県内)
六連島
六連島
六連島 (山口県)
プロジェクト 地形
テンプレートを表示
1974年(昭和49年)撮影の2枚を合成作成。
馬島は福岡県北九州市小倉北区に属する。この2島間に山口県と福岡県の県境がある。
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成

六連島(むつれじま)は、山口県下関市響灘諸島に属する島である[1]

概要

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下関市の西約4キロメートルに位置し[1][2]彦島の北西約5キロメートルに浮かぶ溶岩台地の島[3]。面積0.69平方キロメートル、周囲3.9キロメートル、最高地点の標高104メートル[4]2019年平成31年)4月1日の住民基本台帳によると、人口は90人、世帯数は42世帯[5]

六連島の隣約300メートルに福岡県北九州市小倉北区馬島がある。馬島は六連島との対比より江戸時代には別名「小六連島」と呼ばれた。この両島間の海峡が県境となる[6]

六連島の地質は第三紀層および火山活動によりその地層を貫いて中央に噴出した玄武岩からなる[2][7]。溶岩台地で水はけがよく、気候も温暖なことから、野菜のほか草花ハウス栽培がなされている[3]

歴史

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縄文時代後・晩期、弥生時代前・中期、古墳時代におよぶ遺物が、1955年昭和30年)[3]、六連島南西部の音次郎地区より発見されており、音次郎遺跡(六連島遺跡)と称される[8]

日本書紀の仲哀紀(巻第八 仲哀天皇 足仲彦天皇)には「没利島(もとり〈もつり〉しま)」として登場し[9]平安中期の能因歌枕には「牟都留能志麻」と表記されている。

1872年1月(明治4年11月)に、イギリス帝国の技術を導入した、高さ約11メートルの洋式石造の六連島灯台が建設され、7月(明治5年6月)に西国行幸中の明治天皇が視察している[10]

戦前には、下関要塞地帯の一角として砲台が築かれ、第二次世界大戦中には高射砲部隊も駐留していた。島の最高所には、2009年(平成21年)まで海上自衛隊六連警備所が置かれていた。六連警備所の先に、前述の六連島灯台がある。漁港脇には大東タンクターミナル株式会社六連油槽所があり、大小合計19基の石油タンクが設置される[11]

島名

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六連島の名のいわれには次の3つがある[3]

  1. 周囲に馬島、金崎島、片島、和合良島など大小6つの島が連なっているためという説[12]
  2. 6人の入植者がこの島の土地を分けるために縄で島を6等分したという説[12]
  3. 韓国語の「モッアール(ムツアル[8]、集落)」が転訛したという説[12]

このほか、日本書紀にある「没利」を「六連」の字に改めたことが考えられる[8]

また、島の形がカニの甲に似ることから「蟹島」とも呼ばれた[8]

産業

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六連島は瓶詰めウニの発祥の地として知られる[3]

農業、特に草花のハウス栽培が盛んであり、花卉(かき)運搬船下関市北九州市の市場に出荷されている[13][14]

交通

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下関市竹崎町の竹崎桟橋より、下関市営渡船にて1日4往復(夏季5往復)、定期連絡船が運航されている。

所要時間約20分。現在、運賃は大人370円、子供190円[15]

名所

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施設

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トランプ氏のことなど。(素人雑記)

今日は、すこし、気分転換に、祖父の軍歴の話から離れてみる。

 

さて

自分は、政治や経済に精通しているわけでもないため、以下、あくまで素人が思っていることである。

 

ただ若いころ2度一定期間だが米国にすんでいたこともあり、若干アメリカ人というものがすこしだけ肌で感じることができるかもしれない。

 

最近、トランプ氏の再選前後から、氏のことについてのテレビ番組の国内外のものなどをよく見ていた。

 

賛否両論渦巻いているものの、自分は、正直なところ、「オモシロイ男だなあ。。。」と思った。

(自分はとくにトランプ氏を礼賛する人間ではないが。)

 

世間を気にして、保身のため萎縮発言のみをするオッサンしかいなくなった現在、アメリカ人にとって、自分の憂さを代言してくれるオッサンとして存在しているようにもみえる。

 

銃撃事件で、こぶしを振り上げる奴さんを見た時、おそらく当選確実だろうとおもっていたが、そのとうりになった。以前、ブログに書いた予想はあたった。

 

前にも書いたが、ダイハードやロッキーのような、どつかれてもどつかれても這い上がってくるような人物を米国人は大変好む。

「カウボーイ」?とでもいうのか。

 

以下、余談として。

自分が最初に留学したところのトップは、20世紀の外科医を代表するパイオニアといわれた人物だったが、「カウボーイ」と言われていた。

 

病院では白衣を着ず、黄や赤などの派手なジャンパー、革ジャンを着ている型破りの人だった。

合言葉は「ゼロからのスタート」だった。

米国人にとって、「カウボーイ」と言われることは、リスペクトを大いに含む。

 

その人物は、若いころ、ある有名な病院で研修医をやっていた。

急患の手術を麻酔科に申し込むが、ハイリスクとの判断で麻酔科が拒絶した。

 

が、このままでは患者は確実に死んでしまうと判断したこの人物は、患者を勝手に手術室に運び、自分自身で麻酔をかけはじめた。

病院には、麻酔科がいるにもかかわらず、勝手に麻酔をかけはじめたことになる。

 

ある意味、信念というのか、正義というのか、大義をもって、院内ルールの上での越権行為、ルール破りをおこなった。

 

(日本でも、外科医は研修として麻酔科のトレーニングを受けているため、麻酔をかける技術は持っている。)

 

おそらく当時多くの議論を院内でうむことになったと想像する。

この人物は、その一件後、研修医途中で解雇されることになるが、院内に不朽の伝説をのこしたことだろう。

時は流れて、幾星霜。

このようながんばり屋さんは、米国では大いに許容され、再生してゆく。

(また、そういう基盤が米国にはある。)

外科の歴史上に名を連ねる外科医になって行った。。。

 

さてさて、

道をそれた。

米国人がこのむ人物ということで、自分の知る人物での例をあげたに過ぎない。

 

1789年、ジョージ・ワシントン初代大統領選出から、現在2024年で、235年経過している。

 

米国も、国に年齢があるとすれば、若年期を過ぎ少々老化が進んできたのかとおもわせるような老齢の大統領が目立ってきた。

はつらつとしたJFKのような大統領が出てくるのかと思いきや、なかなかそうならない。

 

トランプ氏は、バイデン氏同様、高齢だが、しかし、何を食っているのか、若いかんじがする。

「人を食ってきた人間はなかなか老化しない。」という、自論が自分にはあるが、そうなのかもしれない。

 

信長、秀吉、西郷など、そろばんが非常にうまかったという話が伝わっているが、やはり金の計算ができる人間というのは、経済安定化、ひいては国を拡張・安定化させることができると考えてまちがいないだろう。

 

第一次トランプ政権の末期のコロナ流行ということがなければ、バイデン氏に代わることはなかったと自分は思っている。

なぜならば、かなり経済は安定させていた印象があるからである。

(米国の国民の株への傾倒、依存は非常に高い背景がある。)

 

今回の再選に関して思うことは、トランプ氏と「大衆」とが非常に近距離になり、この両者の間に存在する「知識層」がギューッと圧迫されて小さく圧縮あるいは外に出されたような恰好になっている状況である。

 

この構図は、過去にあったドイツのナチス時代の状況と同じである。

 

第二次トランプ政権がどのようになるか、マスコミが大いに騒いでいるが、あくまで素人発言であるが、経験値の高くなったトランプ氏はさらに学習して進化している可能性もある。

 

そういう意味において、すこし注目しているのは、

「スーザン・ワイルズ」というおばちゃんを大統領首席補佐官として任命していることである。

なかなかやるのではないかと。。。

 

さてさて、根気がなく、無知ゆえ、次第にまとまりがなくなったので、ここでやめる。

 

最後に、

司馬遼太郎氏の、街道をゆく「ニューヨーク散歩」という、アメリカというものを実にわかりやすく書いてくれた名著が幸い存在する。

 

アメリカは、「大いなる実験国家」と書いてある。

 

 

*****

以下

参照

reference

Wikipedia

 

 

街道をゆく

紀行エッセイの代表作。アジア・欧米も取材対象とする。

 
 

スージー・サマーオール・ワイルズ

 
 
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
スージー・サマーオール・ワイルズ
Susie Wiles
2020年撮影
 
アメリカ合衆国の旗 第32代 大統領首席補佐官
就任
2025年1月20日(就任予定)
大統領 ドナルド・トランプ(当選者)
後任者 ジェフ・ザイエンツ英語版
個人情報
生誕 スーザン・サマーオール
1957年5月14日(67歳)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ニュージャージー州
政党 共和党
配偶者
ラニー・ワイルズ
(結婚 1985年; 離婚 2017年)
子供 2
パット・サマーオール英語版
教育 メリーランド大学カレッジパーク校 (BA)
渾名

スージー・サマーオール・ワイルズ英語Susan Summerall Wiles, 1957年5月14日 - )は、アメリカ合衆国の選挙コンサルタントドナルド・トランプの2024年大統領選挙運動では共同議長を務め、2025年1月に発足する第2次トランプ政権における大統領首席補佐官(第32代)に指名されている。同職に女性が起用されるのはこれが初となる。

 

 

 

 

「大日本軍艦明石」祖父・木工軍歴: その6 大正3年(1914年)の履歴

(つづき)

 

明治44年から海軍に徴兵された祖父の履歴を、引き続き追ってみる。

 

その前に、

大正3年(1914年)の世間の動きを少々見てみる。

 

桜島大噴火、東京駅完成、第一次世界大戦勃発、パナマ運河開通の年。

 

祖父にとって、初めての「戦役従事」がはじめることになる。

 

以下、この年の出来事を

Wikipediaから少々ピックアップしてみる。

 

1月5日 フォードモーターが従業員8時間労働と日給5ドルの最低賃金導入

 

1月12日 桜島大噴火。対岸の大隅半島と接続。(火山灰は東北地方まで観察。)

3月19日 辰野金吾設計の東京駅新築落成。

 

3月24日 第一次山本内閣総辞職。(シーメンス事件による。)

 

4月1日 現在の宝塚歌劇団にあたる、宝塚少女歌劇の第一回公演。

4月20日 夏目漱石「こころ」連載開始。(→2年後に死去。胃潰瘍。)

 

6月28日 サラエボ事件(→第一次世界大戦への直接的な引き金となる。)

     オーストリア皇位継承者夫妻が、セルビア人により暗殺される。

 

7月8日 孫文らが東京で中華革命党を結成。(孫文、日本に亡命中。)

 

7月28日 オーストリアが、セルビアに宣戦布告。

     第一次世界大戦がはじまる。

 

7月31日 日本初のエスカレーター登場。

 

8月12日 英国が日本の対独参戦に同意。

 

8月15日 パナマ運河開通式。

 

8月23日 大日本帝国がドイツに宣戦布告。

 

9月1日 日本がドイツ租借地山東省上陸。(青島の戦いへ。)

9月6日 マルヌ会戦 → 以後、西部戦線は膠着。

9月22日 ドイツ東洋艦隊 タヒチ島パペーテを砲撃

 

10月1日 三越呉服店新装開店。エスカレーターとライオン像が話題。

     第一回二科展。

 

11月2日 早慶明の三大学野球リーグ開幕。

12月29日 伊藤忠合名会社設立。

 

日付不詳

エドガー・ライス・バローズの「ターザン」

*****

 

さてさて、

実際の祖父の大正3年(1914年)の軍歴の履歴をみてゆく。

 

まず、

大正3年4月4日 呉発 旅順回航(警備) 但軍艦明石乗組」との記載。

 

前年の12月28日に厳島に帰着してから、4か月後、呉を出港しているようだ。

 

このころの旅順というのはどういう状況だったのだろう。

あまり詳しくないのだが。。

 

遼東半島の最西部(突端部)に旅順は位置している。

そのころのドイツ租借地山東省とは、黄海を挟んで対側に旅順は位置している。

 

日露戦争後、ポーツマス条約により、清に対する租借権を正式にロシアから引き継いでいる。したがって、この時点では旅順は日本の租借地ということになる。

(1945年、ソ連が侵攻するまでそのような状況と思われる。)

 

「旅順回航」ということから、対岸に位置するドイツ租借地山東省への警戒と想像する。

 

次に

大正3年9月1日 ヨリ大正3,4年戦役従事 但軍艦明石乗組」という記載。

 

履歴のなかで初めて「戦役従事」という文字が出現する。

 

7月28日に、オーストリアが、セルビアに宣戦布告し、戦火が広がり、第一次世界大戦がはじまることになる。

8月23日に大日本帝国がドイツに宣戦布告。

 

9月1日には、ドイツ祖着地・青島への攻略戦がはじまる。日英の連合軍が攻略。

      軍艦の大半は日本海軍である。

      日本の戦争ではじめて航空機が投入された戦いと言われている。

 

日時は祖父の履歴と一致している。

この青島の戦いへ参加軍艦に、明石は名を連ねていた。

青島の戦いは、11月7日で停戦。

 

この停戦6日前に

大正3年11月1日 海軍一等木工ヲ命ス」とあり、昇格している。

 

さて、青島の戦いでドイツ兵捕虜は、日本の収容所に、1919年まで長期にわたり、収容された。

 

よく言われていることだが、とくに徳島の板東俘虜収容所では地元住民との交流があったという。

各地に点在した収容所のドイツ人から、のちに、ドイツパン、バウムクーヘン、楽器演奏、ベートーベンの第九、鉄棒体操などが広まることになる。

 

バウムクーヘンを広めることになった、カール・ユーハイムは捕虜の一人で、日本にとどまり、彼の事業を継承するのが、現在の株式会社ユーハイムである。

 

戦争というものが実に不思議なのは、国家の戦いであって、その個人そのものにはなんら遺恨があって戦ったわけではないということである。

戦争は国家というものの負の産物である。

 

以下、列記。

 

大正3年11月15日 ヨリ警備 但軍艦明石乗組」

大正3年12月4日 佐世保帰着」

 

青島停戦から、一か月、一旦佐世保に戻っていることがわかる。

 

大正3年12月5日 自 戦役内地服務 但軍艦明石乗組」

大正3年12月18日 至」

 

大正3年12月19日 佐世保発 大正3,4年戦役従事 但軍艦明石乗組」

 

佐世保に帰着してから「戦役内地服務」とあり、その詳細は不明であるが、2週間後、また佐世保をたち、二回目の「大正3,4年戦役従事」という記載がみられる。

 

正月なしかあ。。。

うーん、よくやるねえ。。ハンモック生活。(爺さん、茶化してすみません。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「大日本軍艦明石」祖父・木工軍歴: その5 大正2年(1913)の履歴

(つづき)

 

まず、この年、大正2年(1913)のニュースを少々ピックアップする。

 

2月20日、第一次山本内閣成立。

    (首相は海軍大将の山本権兵衛である。大蔵大臣は高橋是清。)

 

6月10日、「森永ミルクキャラメル」が販売(こんな時からあったのか。。)

 

6月29日、第二次バルカン戦争勃発 (ヨーロッパがそろそろあやしいなあ。)

 

7月12日、中華民国で、袁世凱専制と国民党弾圧に反対し、第二革命がおこる。

     鎮圧された孫文は日本へ亡命。(中国も政情不安定。)

 

8月21日、東北帝国大学で3名の女性入学許可。帝大初の女子学生誕生。

9月1日、袁世凱が南京を占領。南京事件(在留日本人を殺害)。

 

10月6日、日本政府が中華民国を承認。

10月10日、臨時大総統であった袁世凱が正式に大総統に就任。

 

11月22日、徳川慶喜感冒で死去、享年77。(長命でしたね。)

 

この年、

松井須磨子「カチューシャの唄」大ヒット。

東北地方、冷夏により、大凶作。

 

 

さて

軍歴・履歴にもどる。

 

まず、「大正2年6月3日 馬公着」とある。

 

この前年、「大正元年12月28日 馬公発 南清回航(警備) 但軍艦明石乗組」とあることから、約6か月回航していたことになる。

 

燃料や食事の補給があるだろうから、どこかの港に何度か停泊していたと想像するが、一切記載がないため、詳細は不明である。

 

国立公文書館あたりに、軍艦明石の航海日誌のようなものが残存していれば、もうすこし深堀りできそうな感じもする。

 

次に、

大正2年7月10日 馬公発 支那回航(警備) 但軍艦明石乗組」と書かれている。

 

約一か月後にまた馬公から出航していることになる。

支那」という文字が出てくる。

前年、清国がなくなっているので、「支那」という表現に変わったのかと思われる。

 

この出航の2日後、7月12日、独裁を強める袁世凱に対する孫文らの革命勢力が武装蜂起している。「第二革命」といわれる。

 

袁世凱、北洋軍閥による軍事政権(北京政府)VS 中華民国孫文ら民主的な政体を目指す南京を拠点とした勢力、という対立構図>

 

あまり自分はこのあたり詳しくないのだが。。。

 

それより以前、そもそも、大正元年(1911年)に、孫文らが中心となって清朝を倒し、大正2年(1912年)1月に孫文を臨時大総統とする中華民国を樹立した革命、これを「辛亥革命」、あるいは「第一革命」と呼ぶらしい。

 

さて

祖父が22才になり、すぐに

大正2年11月1日 海軍二等木工ヲ命ス」と、昇格している。

 

大正2年12月28日 厳島帰着」。やっと日本に戻りましたか。。。

 

(注意:上記、厳島のイツクの部分の漢字は、旧字体で印刷されているのだが、漢字変換できなかったため、「厳」という字で、ここでは代用する。上が口ふたつの漢字。)

 

調べる範囲では、このころの「支那」の政情不安定な状況が、約6か月間の、

軍艦明石の「支那回航」となったことがおおむね推測できた。

 

瀬戸内出身の祖父が、厳島に帰着した時には、心底ほっとしたのではないかと想像する。

 

(いきなり軍歴の履歴で、厳島というものが出てきた。無知識のため、wikipediaで調べた。文末要参照。少々、無知故に興味のわくものであった。)

 

履歴では、丸1年、台湾の馬公を拠点に、国外に出っぱなしということになるが、これが本当ならば、自分なら、おそらく発狂していた可能性が高い。

 

無茶すぎる。。。

 

あと気にかかるのは、第一次世界大戦に移行してゆく感じが、ひょっとして今の世相に少々似てはいないのかという、変な予感。。。

 

********

参照

Reference

Wikipedia 厳島

 

 

厳島(いつくしま)は、広島県廿日市市宮島町にある瀬戸内海西部、広島湾の北西部に位置する。通称は安芸の宮島(あきのみやじま)、または宮島

概要

[編集]

古代より、島そのものが自然崇拝の対象であったと考えられる。平安時代末期以降は、厳島神社の影響力の強さや海上交通の拠点としての重要性から、たびたび歴史の表舞台に登場するようになった。江戸時代中期には、丹後国(現・京都府北部)の天橋立陸奥国(現・東北地方東部の宮城県)の松島と並ぶ、日本三景の一つに挙げられる景勝地として広く知られることにもなり、日本屈指の参詣地・観光地として栄えるようになった[3]。現在では人口1800人余りの島に国内外から年間300万人を超える参拝客及び観光客が訪れており[* 1]2011年には、トリップアドバイザーが「外国人に人気の日本の観光スポット」トップ20の第1位と発表した[4]原爆ドームとならんで広島県の代名詞的存在の一つである[3]

景勝地としての厳島の中心は、厳島神社である[3]海上に浮かぶ朱塗の大鳥居と社殿で知られる厳島神社は、平安時代末期に平清盛が厚く庇護したことで大きく発展した[3]。その社殿群の構成は、平安時代寝殿造の様式を取り入れた優れた建築景観をなし、敷地内の神社殿は海上に立地し、海と景観に調和して配置され、中央に人工建築、手前に海、背景に山々の三位一体が組み合わさり、人工の成果と自然の要素を組み合わせた景観は他に比類がなく、これらは清盛の卓越した発想によるものである[3]。現在、本殿、幣殿、拝殿、祓殿、廻廊(いずれも国宝)などのほか、主要な建造物はすべて国宝または国の重要文化財に指定されている[3]。皇族・貴族や武将、商人たちが奉納した美術工芸品・武具類にも貴重なものが多く、中でも清盛が奉納した「平家納経」は、平家の栄華を天下に示すものとして豪華絢爛たる装飾が施されており、日本美術史上特筆すべき作品の一つとされる。厳島神社および弥山原始林は、1996年(平成8年)にユネスコ世界遺産に登録されている[3]。海岸の一部は2012年平成24年7月3日ミヤジマトンボの生息地としてラムサール条約に登録された[5]

島の最高峰弥山標高535メートル)山頂から望む瀬戸内海の多島美も人気があり、毎年元旦未明には初日の出を目指す人で混み合う。この地を愛した伊藤博文は「日本三景の一の真価は弥山頂上からの眺望に有り」と絶賛し、それがきっかけで明治時代後期に弥山への一般登山路が整備された。1900年(明治33年)に定期航路が開設されると、旧来の渡し船に依存していた交通が改善し、島への参拝客・観光客が急増した。

島の全域(周辺海域を含む)が1934年昭和9年)に瀬戸内海国立公園編入され、自然公園法が定める特別保護区域となっている。1952年(昭和27年)には国の特別史跡及び特別名勝に指定され、弥山の原始林は国の天然記念物に指定されている。

かつて島全体が佐伯郡宮島町と一致していたが、2005年(平成17年)に廿日市市と合併した。2021年(令和3年)8月2日厳島神社付近の町並みは「廿日市市宮島町伝統的建造物群保存地区」として重要伝統的建造物群保存地区に選定された[6]

名称

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いつくしま厳島異表記嚴島嚴嶋ほか)」という地名は、「イツク(斎く。意:心身のけがれ[* 2]を除き、身を清めてに仕える)シマ(島)」から来ていると考えられており、厳島神社祭神の筆頭に挙げられる女神イチキシマヒメ(市杵島姫)[* 3]の名に由来するか、少なくとも同根語である。厳島神社縁起の伝えるところでは、スサノオ(素戔男)の娘とされる宗像三女神、すなわち、イチキシマヒメ(市杵島姫)、タゴリヒメ(田心姫。タキリビメの別名)、タギツヒメ(湍津姫)の3柱は、2羽の神鴉(しんあ神使カラス〉)に導かれ、現在厳島神社のある場所に鎮座した。

島の名として「嚴嶋大明神」のように平安時代からの用例がある。江戸時代前期の寛永20年(1643年)に儒学者林春斎林鵞峰)が著した『日本国事跡考』のうちの陸奥国のくだりにある、いわゆる「三処奇観(さんじょきかん)」の一文にもその名が見える。この景観評価は「日本三景」の由来となった。

原文
松島 此島之外有小島若干 殆如盆池月波之景 境致之佳 與 丹後天橋立 陸奧松島 安藝嚴島 此三處為奇觀── 林春斎『日本国事跡考』

書き下し文
松島まつしましまほか小島をじま若干じやくかんあり、ほとんど盆池月波のけいごとし、境致きやうちなる、丹後たんご天橋立あまのはしだて陸奥むつ松島まつしま安芸あき厳島いつくしま三処さんじよ奇観きかんす。

現代日本語訳例》
松島、この島のほかに小さな島がいくつかある。その景色はあたかも池の水面に浮かぶ月の光の波のようだ。景観の美しさ素晴らしさにより、丹後の天橋立陸奥の松島、安芸の厳島、この3箇所は絶景となっている。
歌川国貞『紅毛油絵風 安芸の宮島
歌川広重六十余州名所図会 安芸 巌島 祭礼之図』
歌川広重日本三景 安芸 厳島
2代目歌川広重『諸国名所百景 安芸宮島汐干』

宮島

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みやじま宮島異表記宮嶋ほか)」という地名は、江戸時代以降のもので、「ミヤ神社)+ シマ(島)」を意味する。「宮島」は同名他所の地名でもあるので、安芸国(芸州)の宮島に特定する意をもって「安芸宮島/安芸の宮島(あきのみやじま)」などと呼ばれることも多い。江戸時代中期の寛保2年(1742年)の伊予松山藩の座頭記録には「芸州宮嶋江参詣……」とある。

厳島」「宮島」の使い分け

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この島の名称について、「厳島」と「宮島」が使い分けられているが、明確な基準はない。測量を所掌する国土地理院は「厳島(いつくしま)」の名称を用いる。一方で島内の約8割を占める国有林を管理する林野庁[7]、周辺海域を含めた国立公園を管理する環境省[8]は「宮島(みやじま)」の名称を用いている。読みやすさと漢字の平易さから観光PR等においては「宮島」が選ばれやすい傾向がある。

地方自治体としても、1889年明治22年)の町制施行時には「厳島町」であったが、第二次世界大戦後の1950年(昭和25年)には「宮島町」へ変更されるなど、行政地名にも揺れがあった。学術書公文書の多くで「厳島」が用いられる一方、観光事業などでは「宮島」が多用される傾向がある。ただし、観光振興に関連する行政文書が「宮島」を用いたり、旅行ガイドが歴史の長さや荘厳さを演出する意図を持って「厳島」を用いる例外もある。これら表記の併存は江戸時代中期には見られた。以下に実例をあげる。

ここからは、地名(藩政村名・行政村名など)や作品(絵図、浮世絵新版画など)の題名における併存の実例を、時系列で記載する。使われている旧字体)は全て新字体に変換する。異字・俗字はそのまま表記する[9]

  • 源通親 『高倉院嚴島御幸記』/不明
治承4年(1180年)高倉院厳島御幸に随行した源通親の紀行文。表題は厳島表記だが、中の文ではすべて宮島あるいは宮じま表記。
巻第四・厳島御幸は『高倉院嚴島御幸記』を素材として書かれている。すべて厳島表記。
添えられている狂歌師・司馬の屋嘉門(芝の屋山陽の別号)の漢詩には「夕日輝厳島山」とある一方で、図中の説明には「安芸州宮島」とある。
広重の場合、神社には「厳島」、島には「宮島」「宮嶋」の字を用いている。その後、2代目広重(歌川重宣)や3代目広重(後藤寅吉)もこの地を描いているが、いずれも神社をも画題に入れながら「宮島」「宮しま」としており、明治維新以後急速に「宮島」の名称が広まっていったことを窺わせる。