来月9月1日で関東大震災から100年経つそうである。
(1923年大正12年9月1日。死者10万5000人。)
さて、「天災は忘れたころにやってくる」の言葉でもしられている、寺田寅彦の「柿の種」のなかに、この震災後早期の自然の復元力について興味ある記載がある。
科学者らしいいい記述である。
父親の寺田利正は、幕末土佐でおこった井口村刃傷事件で実弟の切腹介錯を務め、その後精神を病み、倒幕には参加せず、学問により社会を変えようと考えたことが、その子寅彦に軍人より学者を選ばせたといわれている。
夏目漱石の「吾輩は猫である」の水島寒月、「三四郎」の野々村宗八のモデルと言われいる。
以下、大正12年11月、柿渋から
「震災の火事の焼け跡の煙がまだ消えやらぬころ、黒焦げになった樹の幹に鉛丹(えんたん)色のかびのようなものが生え始めて、それが驚くべき速度で繁殖した。
樹という樹に生え広がって行った。
そうして、その丹色(にいろ)が、焔にあぶられた電車の架空線の電柱の赤さびの色や、焼け跡一面に散らばった煉瓦や、焼けた瓦の赤い色と映えあっていた。
道ばたに捨てられた握り飯にまでも、一面にこの赤かびが繁殖していた。
そうして、これが、あらゆる生命を焼き尽くされたと思われる焦土の上に、早くも盛り返して来る新しい生命の胚芽の先駆者であった。
三、四日たつと、焼けた芝生はもう青くなり、しゅろ竹や蘇鉄(そてつ)が芽を吹き、銀杏も細い若葉を吹き出した。
藤や桜は返り花をつけて、九月の末に春が帰ってきた。
焦土の中に萌えいずる緑はうれしかった。
崩れ落ちた工場の廃墟に咲き出た、名も知らぬ雑草の花を見た時には思わず涙がでた。」
この文章をはじめて読んだとき、自分の目には涙がたまっていたが、妙にほっとした。
安堵した理由ははっきりしないが、自分が焦土に埋もれても、自然がこんなにもはやく復活し、また前と同じように花を咲かせてくれることを知ったからかもしれない。
早々に赤かびが生え広がったこと、3-4日で焼けた芝生が青くなり、ひと月も経たぬ9月末には返り花として藤や桜が咲いたという記述には心底驚いた。