丸いものを三角と言ったり、三角を四角と言い切ったりする、そういう観念論を振りかざす人種から離れて生きようと思ってきた。
左でも、右でもなく、中庸を行きたいと意識してきた。
八月になると心がおちつかなくなり、靖國神社へ行く。
戦争で亡くなった人たちに自分が行っていることは、ただそれだけである。
こんな暑いときに戦争はおわったのかとおもう。
おおくの可能性をもった若い人たちがたくさんなくなっていったことは、どう考えをめぐらせても、無念であったにちがいない。
無念の思いは、まだ、空中に浮遊している。
現在自分が生きているのも、それらの人々が礎(いしずえ)となってくれたからと信じている。
兵士として戦争で死ぬということ、これを自己の中で、理由づけするしかない。
例えば、道を行く小さな子供たちの屈託のない笑い声を聞き笑顔を見て、この子たちの将来のために自分は死ぬんだと思い込ませない限り、私の場合には自分を納得させることはできないような気がする。
国家(nation)というものがなければ、大きな争いは起こらないと思うが、やはり幻想か。。。
愛国という思いと、国家主義という考え方とは、本来距離のあるものと思っているが、どうも政治的に、人の熱狂は簡単に操作されてしまうようである。
大衆が熱狂するというと現象は、常に危険な兆候である。
昭和におこった太平洋戦争の最初の兆候は、群衆が暴徒化した、日比谷焼き討ち事件(1905年、明治38年)にたどることができる。
これが傲慢化した大衆の始まりである。
マスコミにあおられず、誤情報を排除し、日本を世界の一部と見、そして、いかに己の平静のこころを保つか。
自国を博打の材料にした、先のような戦争は二度と繰り返してはならない。
夏、鎮魂。