非常勤勤務で、週に一度行っている病院がある。
外来についてくれた事務のおばさんが、「今年の夏のボーナスは減給になります」と小声で言われた。
この病院は大都市近郊の中規模個人病院で、自分が驚くほどにコロナ対策に打ち込み、多くの労力を投じていたと思う。第三者的に見ても、大変まじめな病院と言える。真摯に取り組んだ職員があってのことである。
30歳代、米国東部の病院に勤めていたこともあり、大学病院勤務時代、教授からいわれて米国の病院の従業員数を調べたことがあった。
医療制度のおおきな違いがあるとはいえ、患者数ひとり当たり、日本の、5-6倍のさまざまの職種の人が働いていた。
たとえば、患者の搬送には、専門のスタッフがいた。
みな怪力の持ち主のような大男たちだった。
日本のように、看護師が手伝わされたり、小柄な女性の看護助手が、患者を抱えて腰痛になったりするというわけではなかった。
国民皆保険というありがたい制度の裏側では、このようなことが現実の一つなのである。
こういう意味では、世界有数の医療レベルをキープする日本というのは、誰が茶々を入れようと、このような環境下よくやっているとしか表現のしようがない。
例えば、医療レベルの一つの指標となる周産期の子供の死亡率は世界一低い。
個人の能力に頼り、大きな枠でのシステムづくりをしないという、日本の伝統は現在も行われている。
翻っていうと、このような方向にしてしまうのは、歯車の一つである個人が、どうにかこうにか事をこなしてしまうという国民的習性あるいは能力という事になるだろうか。。 (苦笑)
強要された要求に、忍耐し、
あるいは、患者さんのためにという正義論に、身をしばられて。
なんという素晴らしい姿なんだ。。。と時々思う。
事務のおばさんにも生活がある。
僕の心の中を発露するならば、コロナ流行でここ3年、あれほどの労力、気疲れをさせながら、おばさんのボーナスの減給はないだろうよ。
個人の私的病院とはいえ、病院というのは、やはり公的な社会のインフラ同様である。
なくなれば、皆が困るものだからである。
国がこういうものを保護していこうという特別な努力をしない限り、必ずだめになってくる。
伝統芸能の保護とまったく同じである。
ごくごく普通の医療を行って、こういう病院がほんのわずかながらの黒字を生めるよう、国がサポートしなければ成り立たなくなってくる。
多くの病院が赤字にあえいでいる。
こういう状況が続くと、巷にある療養型病院では、高齢者への過剰医療が行われている。意志の伝達すら不可能な高齢者に、人工呼吸器をつなぎ、胃瘻などの経腸栄養を施行し、延命の処置がとられる。そして、不要な採血やCTなどの検査が行われている。
それはなぜか?
残念ながら、おおくは経営のためである。
自分が患者なら、「先生、人生の最後にこんな苦しみがあるとは思いませんでした。まだ私に忍耐を強いるのでしょうか。もうこんなに寝ていたら、体中痛くて痛くてしかたありません。見てください、おしりにはに床ずれができて、膿まででていたくてしかたありません。」と言いたいが、その時にはもう意思表示もできない状況なのである。
医療の倫理観と死生観。
elderly-mongeringともいえるような高齢者医療の状況に対し、なぜ医師が警鐘をならさないのか?本当に不思議でならない。
経営破綻した医療法人は、人の血や汗や糞尿のにおいを知らないただただ経済力のある、医療と全く関係のない組織に吸収され、医療経済という名の傘下に収まる。
個人的意見を言うならば、高齢者の増加、それを負担する若者の減少という事を考えると、そろそろ、国民皆保険時代は終焉せざるを得なくなってきているといえる。
自由診療の部分を少しずつでも増設してやらないと、良心的、良識感のある病院は近い将来もたなくなるだろう。
「戦術(タクティック:小手先の技術や能力といっていいかもしれない)におぼれ、戦略(ストラテジー:大きな土俵からみた大方針)を誤るものは、国家を滅ぼす」とは、靖国神社に銅像がある大村益次郎の言葉だが。。。
すでに遅いが、少しでも大負けしない手筈は必要である。
医療組織の上にたつ医療経済に毒された者たちが、外面では格好をつけ、現場の人たちの実情を社会に発信しないというのも、そろそろやめてほしいものである。
さてさて、今日はここまで書くと、少々疲れましたなあ。