若いころ、ひねくれたあるイギリス人と口論になりかけたことがある。
「東京はチープな街だ。」と言うのである。
その時、「君の国は、世界中蹂躙して得た富で、立派な建物を建てられただけではないのか」と反論するだけの十分な英語力もなく、悔しい思いをした記憶が今でも残る。
さてさて、
東京都の神宮外苑の再開発で、樹木伐採に対する反対運動がある。
以前、日曜日の早朝、外苑のイチョウ並木に車を寄せて、一服すると実に気持ちいいものだった。都会の中の安らぎを得られる空間である。
しかしながら、年を重ねるうち、次第に、あのイギリス人の言葉にどうも間違いはなさそうだと思うようになって来た。
樹木を伐採し、これ以上、東京の街に、縦長、無機質、硬質な、長方形の景色を増やしてどうなるのか。
ますますそういう思いは強くなっている。
ここでボードウィンという明治時代に日本に招かれ西洋医学の振興に努めた外国人を想起する。ポンぺの後任者である。
(参照として、文末メモをおきました。)
東京の街に、上野公園という大きな空間が現在も存在するのは、彼のおかげである。
明治政府は、新たな建造物のために、この広大な森林をなくそうとした。
「ヨーロッパの街々が、都市景観のために森林を残そうとしている時代に、伐採するとは何事か。」と、建言してくれたのである。
150年前の話である。
さて、われわれの時代。
小さな発展?のために、神宮外苑の樹木伐採をし、何をしようというのか。
自然の保全は、伝統芸能のそれと同じで、努力しなければ残るものではない。
われわれは、大きな視野をもつ為政者を、ずっと待ちつづけなければならないのか。。。
(Politician(政治屋)はいらぬ、Stateman(政治家)をのぞむ。)
メモ
Reference: wikipedia
アントニウス・フランシスクス・ボードウィン[1](Anthonius Franciscus Bauduin、1820年6月20日 - 1885年6月7日)は、オランダ出身の軍医。
生涯[編集]
1820年にドルトレヒトにフランス系の家庭に生まれる[4]。
ユトレヒト陸軍軍医学校とユトレヒト大学医学部で医学を学び、卒業後はオランダ陸軍に入隊し、1845年からはユトレヒト陸軍軍医学校で教官を務める。
1862年(文久2年)、先に日本の出島に滞在していた弟の働きかけにより、江戸幕府の招きを受けて来日。ポンペの後任として長崎養生所の教頭となる。その間、江戸、大阪、長崎で蘭医学を広め、また養生所の基礎科学教育の充実に努める。そして幕府に医学・理学学校の建設を呼びかけ、その準備のために1866年(慶応2年)に教頭を離任し、緒方惟準ら留学生を伴って帰国したが、この話は大政奉還で白紙に戻った為、1867年(慶応3年)に再来日し、新政府に同内容の呼びかけを行う。1870年より大阪府仮学校、大阪陸軍病院や、大学東校で教鞭をとり帰国。1873年、オランダ陸軍軍医に復職。1884年に退役し、ハーグで1885年に病没した。
活動[編集]
養生所、医学校教頭としてオランダ医学の普及に努めたほか、本国からクーンラート・ハラタマを招聘するなどして物理学や化学の日本の教育制度の充実を図った。また、上野に病院を立てる計画が持ち上がったときに、上野の自然が失われることを危惧して一帯を公園として指定することを提言した(現在の上野恩賜公園)。上野公園に業績を顕彰する銅像「ボードワン博士像」がある[5]。
特に眼科に優れており、日本に初めて検眼鏡を導入した。なお、アントニウスが日本に持ってきた健胃剤の処方が日本人に伝播され、独自の改良を経たものとして太田胃散と守田宝丹(守田治兵衛商店)[6]がある。いずれもその後品質改良や薬価改定などによって形状・成分の変更などが行なわれたが現在に至るまで市販されている。
アマチュアの写真家でもあり、多くの写真を残している。
メモ
1870年、医学校と病院予定地として上野の山を視察した蘭医アントニウス・ボードウィン(「ボードワン」とも呼ばれる)が、公園として残すよう日本政府に働きかけ、その結果1873年に日本初の公園に指定された。このことをもってボードウィンは、上野公園生みの親と称されている[注釈 2]。