(つづき)
厚労省から送られてきた祖父の軍歴を経時的に見ていきたい。
20才になり、約一か月半後にあたる、
「明治44年12月1日、海軍五等木工ヲ命ス」
という記載がみられる。
西暦1911年である。
日露戦争は、明治三十七八年戦役ともいわれ、これが1904年2月6日から1905年9月
5日までであり、祖父は日露戦争には参加していないことがわかった。
その後、第一次世界大戦は、大正3年(1914年)9月28日にはじまるため、この大戦がはじまる2年半ほど前に、海軍に入っていることになる。
そろそろ、ヨーロッパでは第一次世界大戦への、きな臭さが世相にあらわれている時期ではないかと想像する。
この明治時代の徴兵は満20才である。
祖父はこの徴兵制により海軍に入ったものと思われる。
司馬遼太郎氏の名作「坂の上の雲」の中で、日露開戦時の水兵クラスは、瀬戸内出身者が多かったとの記述がある。
時期はやや異なるとはいえ、祖父は瀬戸内の島の出身である。
おそらく、潮のながれ、海の風、水泳技術など、海というものを肌で感じ取れるという感性を持ち合わせているという点で、即戦力として、水兵として適した者が多かったのではないかと想像する。
宮大工をしていたということを聞いており、「木工」という部署に配属されたものと推測される。
いずれにせよ、
ここから二十歳になったばかりの祖父の、おそらく本人自身も、想像を絶するような生活がはじまることになる。
To be continued
(徴兵制について、以下、ウィキぺディアから参照としておく。)
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1889年(明治22年)公布の大日本帝国憲法(明治憲法)第20条にも「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ兵役ノ義務ヲ有ス」として兵役の義務が規定された。徴兵令はそれまでも何度か改正を繰り返していたが、明治憲法公布の際に法律として全面改正があった。その後1927年(昭和2年)にも全面改正があり、その際に兵役法と改名されている。
徴兵制の概要
[編集]日本の徴兵制度は戸籍制度を前提にしており、明治6年1月10日法では「一家ノ主人タル者」や家産・家業維持の任に当たる者は兵役の義務から免除されていた[65]。戸籍法の適用を受ける日本国民の男性は、満20歳(1943年からは19歳)の時に受ける徴兵検査によって身体能力別に甲-乙-丙-丁-戊の5種類に分けられた。甲が最も健康に優れ体格が標準である甲種合格とされ、ついで乙種合格、丙種合格の順である。丁は徴兵に不適格な身体である場合、戊は病気療養中に付き翌年に再検査という意味である。
当初は一番体格が標準的である甲種の国民が抽選で選ばれた場合に、「現役兵」として徴兵されるにとどまっていた。具体的にはおおよそ10人に1人から4人に1人程度であり、これらの兵士が戦時体制となる前の平時の訓練を受けた兵であった。戦争が始まると甲から順次徴兵されていった。しかし不公平感から全国で徴兵反対運動、あるいは徴兵逃れのための不正が横行するようになった。
そのため徴兵制度は大改正され1889年(明治22年)には法制度上、男性に対して国民皆兵が義務付けられ、甲種合格の者はほとんどが入隊した。やがて徴兵逃れ行為も下火となり、逆に乙種以下とされ徴兵されない事が不名誉とみなされるようになった。
日中戦争が激化した1941年(昭和16年)11月15日、兵役法施行令が改正され、身体が虚弱なため徴集されなかった者(いわゆる第二国民兵)を予備兵または補充兵と同様に招集することが可能となった。また中国大陸に在留する邦人に対しても徴兵、召集が可能となった[66]。
太平洋戦争において戦局が激化するにつれ、現役兵としての期間を終えた後の予備役や後備役にあった元兵士の国民も召集令状によって召集され、大戦末期の昭和20年には徴集率は九割を超えた。通常、現役での徴兵を「徴集」、予備役・後備役での徴兵を「召集」と呼んで区別されていたが、混乱期には区別せずに「徴集」を用いることもあった。この召集制度が悪用された例として竹槍事件がある。さらに第二次世界大戦末期になると兵力不足が顕著になり、文科系学生への徴兵(学徒出陣)や熟練工・植民地人の徴兵が行われた。
徴兵された家庭に対しては、地域単位で様々な慰安会が行われたほか、労働力減少を補うために児童、生徒などによる勤労奉仕(農作業など)が行われた[67]。また、企業・職場単位の労働力減少に対しては国民勤労報国協力令による勤労報国隊が動員された。
日本の降伏後は、日本軍が解体されたため、徴兵制度の根拠となる兵役法は、1945年(昭和20年)11月17日に廃止された。