Dr.FeelGoodの小部屋

小さな楽しみを見つけて、それをつなげて日々を過ごすだけ。

蒲生(かもう)という町のこと

しばし呆けて時をすごしていた。

 

もう一度行きたいところは、どこだろうと考えていた。

 

いくつか出てくるが、蒲生を思い出した。

鹿児島県、蒲生町である。

ガモウとは読まず、カモウと読む。

ずいぶんと歴史のある町である。

 

歴史的雰囲気のエキスのようなものを一滴味わいたくて6年前に訪れた。

(時間がなく、通りすがりではあったが。)

 

蒲生八幡神社境内には樹齢1600年という巨木が存在する。

(日本で最も大きな楠とのこと。たしかにでかい。)

 

帰ろうとして鳥居をくぐると、小学校があることに気が付いた。

下校時刻で、赤白(紅白)帽をかぶった小さな子供たちがでてきた。

赤白帽というのは、自分のこどものころの産物で、まだあるのかと内心驚いた。

 

が、この子供たち、実に骨柄がいい。

顔面筋が弛緩した。

 

すこし興味が出て、裏に回ってみた。

小学校内に、小さな駐車場の入り口があり、そこに神道系の墓石のように先がとがった標語柱がある。

 

黄色を背景として、

「あいさつは人よりはやく元気よく」  蒲生ん子見守り隊

と書いてある。

 

しばし感じ入るとともに、薩摩武士、蒲生衆のことをおもいかえした。

 

蒲生衆はいつも損な役回りばかり引き受け、たまには蒲生衆のいうことを聞いてやれと、薩摩の殿さんが言っていたという話を読んだことがある。

 

明治維新で旧武士は苦労した。

 

いち早く、まちの殖産のため、東京に若者をおくりだす奨学金制度をつくり、旧武士による最初の株式会社をおこしたともいわれる。

 

薩摩武士の気風には、realism(現実主義)がある。

〇を△といったり、△を🔲といったりという、観念論を遠ざける。

 

翻って、

前述の、小学校の標語。

 

今後社会にでていく(個性や能力に関係なく)、全ての子供たちが、実際的に、現実社会にはいっていくうえで、もっとも効率的な方法を提示していると思う。

 

会釈の文化がない、(余裕のなくなった)組織、社会というのは、やはり、薩摩武士気風の「さわやかさ」を欠くものでもろう。

 

 

 

メモ

参照引用 Wikipedia

歴史[編集]

蒲生という地名は、平安時代初期の日本後紀に初めて出てくる。駅伝制において、大隅国蒲生駅薩摩国田尻駅の間が長すぎるために、804年(延暦23年)に薩摩国櫟野村に新たな駅を設けたという記述で、この蒲生駅は現在の下久徳付近にあったものとされている。大隅国国府があった国分付近と薩摩国国府があった川内付近を結ぶ交通路上の拠点であったと見られている。

宇佐八幡宮の留守職であった藤原教清が宇佐八幡大宮司の娘との間に儲けた息子藤原舜清は、1120年(保安元年)に大隅国垂水へ下ってきて、続いて1123年(保安4年)正月に蒲生院に入ってこの地域の総領職となった。そして宇佐八幡宮を勧請して蒲生八幡神社を創建した。以後、舜清とその子孫は蒲生氏と称して、蒲生城を中心としてこの地域を支配するようになった。

以後蒲生氏は蒲生を所領とする豪族であった。しかし1459年(長禄3年)になり、隣接する帖佐を支配していた島津季久は蒲生を攻撃し、まだ若かった蒲生氏15代当主蒲生宣清はこれに対抗することができずに、島津忠国の指示を受けて給黎に移ることになった。その後は島津季久の子島津忠廉が蒲生を支配していた。蒲生宣清は終始島津忠昌の配下として行動し、島津季久島津忠昌と対立するようになると季久方の揖宿城を攻撃するなどし、ついに1495年(明応4年)閏2月に旧領の蒲生を与えられて復帰することができた。

戦国時代後期となると、蒲生氏は島津氏と対立するようになった。1554年(天文23年)、加治木を支配していた肝付氏は島津氏の配下となり、肝付氏と蒲生氏の対立から、祁答院良重入来重嗣蒲生範清が島津氏に対して背いた。蒲生氏は援軍の菱刈氏渋谷氏などとともに加治木の肝付氏を攻撃し、これに対して島津貴久が救援を送った。蒲生から加治木に掛けての各地で戦いが繰り広げられた後、9月になって岩剣城の戦いが起こった。島津氏が日本で初めて鉄砲を実戦で使用したと言われる(異説もある)。堅城であるため苦戦したが、10月3日になり陥落した。

さらに1555年(天文24年)肝付氏と共に帖佐平山城の祁答院良重を攻撃して4月2日祁答院へ敗走させた。その後鎌田政年が帖佐地頭として配され、同年7月27日に祁答院氏が帖佐を奪還しようとして来襲した際には援軍を得ながら祁答院氏を大破した。1556年(弘治2年)には松坂城を3月と10月の2回に渡る攻撃で陥落させて、祁答院氏からの蒲生氏への救援をほぼ絶った。そして蒲生氏の援軍に来ていた菱刈氏を1557年(弘治3年)2月から3月に掛けての戦闘で撃破し、菱刈陣を陥落させたことで蒲生城の包囲を完成させた。援護の得られなくなった蒲生範清は、同年4月20日ついに降伏し、祁答院方面へ退去していった。こうして蒲生氏は平安以来の領地を失い、この地域の島津氏の支配がほぼ確立した。

江戸時代の蒲生は、現在の町役場のあるあたりに地頭仮屋が置かれて、周辺に武家屋敷が並ぶようになった。またこれより東側には野町と呼ばれる商業地区が発達した。蒲生は、明治初期の調査によれば士族が人口の66%をも占めている武士の率の高い地区であり、精兵として知られていた。江戸初期には、林業の振興や和紙の生産の開始など、殖産興業政策も進められた。

1739年(元文4年)には、重富郷を帖佐郷から分割した関係で、それまで蒲生郷に含まれていた木津志村が山田郷に移された。このときの蒲生郷が、後の蒲生町の領域にほぼ相当するようになった。

1889年明治23年4月1日町村制施行により、姶良郡上久徳村・下久徳村・米丸村・北村・久末村・西浦村・白男村・漆村が合併し、蒲生村が発足した。さらに1928年昭和3年11月1日に町制を施行し蒲生町となった。

1955年(昭和30年)1月1日には、山田村木津志の一部を編入し、残りの山田村は帖佐町重富村と合併して姶良町となった。

2010年(平成22年)3月23日には、姶良町加治木町と合併して姶良市が発足。

 

上記引用